知識と信念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:10 UTC 版)
「ドナルド・デイヴィッドソン」の記事における「知識と信念」の解説
1970年以降、デイヴィドソンの心の哲学は、 ソール・クリプキ、 ヒラリー・パトナム、 キース・ドネランらの影響を受けている。これらの哲学者は、心的内についての「記述主義者的」理論というべきものに対して数々の反例を上げてきた哲学者たちである。「記述主義者的」理論とは、バートランド・ラッセルの記述の理論(更に、もしかすると ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの 論理哲学論考) に由来するもので、名前がどの人や対象を指示するか(名前の指示対象)は、発話者がその人や対象について抱いている信念によって決定されると考える見解のことである。例えば、今私が「アリストテレスはリュケイオンを開いた」と信じ、「アリストテレスはアレクサンダー大王の先生だった」と信じているとしよう。これらの私の信念達は、誰に「ついての」ものだろうか。明らかにアリストテレスである。しかし、どうしてそうなるだろうのか。ここでラッセルなら、「私の信念達は、それらの内最大限多くのものを真にするようなものについての信念である」と言うだろう。つまり、もしアレクサンダーの先生が二人いたとして、しかしそのうちリュケイオンを開いたのは片方だけであるとするなら、私の信念達はこのリュケイオンを開いたほうの人物についての信念なのである。一方クリプキらは、こうした説はとても擁護できないと議論している。そして、ある人物の持つ信念が実際のところ誰/何についてのものなのかと言う問題は、大部分(あるいは完全に)、その人がどのようにしてその信念や、名前(例:「アリストテレス」)を獲得したかの問題なのであって、名前のもともとの指示対象から、現在その名前を使う発話者までの「因果的」な繋がりがどうなっているかの問題なのである(指示の因果説)、と主張した。 デイヴィドソンもこうした説を取り上げ、80年代の論文では一人称の信念が二人称・三人称の信念とどう関係しているのかと言う問題を取り扱っている。一人称的な信念(私の「お腹がすいた」と言う信念)は、三人称的な信念(誰かが私について抱いている「彼はお腹がすいている」と言う信念)とはまったく異なってやり方で獲得されるように思われる。これらの信念が同じ内容を持っているというのはどうすれば可能なのか。 デイヴィドソンはこの問題にアプローチするに当たって、もう一つ別の問題をここに結び付けた。「二人の人物が同じ外的対象についての信念を持っているというのはどうすれば可能なのか」。その答えとして、デイヴィドソンは三角測量というイメージを提出している。自分自身についての信念、他の人についての信念、そして世界についての信念は、3つ一緒になってはじめて存在するようになると考えるのである。 歴史上の多くの哲学者は、この三種の信念と知識のうち二つを残りの一つに還元する傾向があったといっていいだろう。例えば、 デカルト と ヒュームは、われわれの唯一の出発点は自己知であると考えた。何人かの論理実証主義者(そして、ウィトゲンシュタインや ウィルフリッド・セラーズ)は、われわれは外界についての信念から出発する他ないと考えた。(そしておそらく、フリードリヒ・シェリング と エマニュエル・レヴィナスは、われわれは他者についての信念から出発する他ないと考えた)。しかしデイヴィドソンの見解では、この三種の心的内容のうち一つだけを持つというのは不可能である。どれか一種について信念を持つものは、他の二種についての信念も必ず持っているはずだとデイヴィドソンは議論している。
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