「弁論術」と「正・不正」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 00:22 UTC 版)
「ゴルギアス (対話篇)」の記事における「「弁論術」と「正・不正」」の解説
ソクラテスとの問答によって、ゴルギアスが持っている技術は「弁論術」であり、彼は「弁論家」、そして、他の人をも「弁論家」にすることができるという点、更に、「弁論術」とは「言論について」の技術であり、それは(他の医術や体育術といった「言論絡み」の技術とは異なり)その技術の働き・目的達成が、「全て言論のみを通して成される」ものであり、更に、(他の数論・計算術・幾何学の技術とは異なり)「人間が関わる事柄の中で一番重要で一番善いもの」を対象・目的としており、それは「自由」と「他者の支配」であり、要するに(法廷・政務審議会・民会・市民集会などで)「他者を説得する能力・技術」のことである、というところまで話が絞り込まれる。 更に、それは(「各個別の対象についての説得」とも言える、他の技術とは異なり)「正・不正についての説得」であり、「知識」と「信念」の区別で言えば、後者の「信念」を扱う、つまり「相手を信じこませるための技術」であり、それによって「他の誰よりも自分が選ばれるように、他者を説き伏せることができる」「ありとあらゆる力を一手に収めて、自分の下に従えることができる」ものである、というところまで話が絞り込まれる。 また他方で、ゴルギアスは、その弁論術を用いるにあたっては、格闘術と同じような「心掛け」が必要であり、誰に対しても見境なくこれを用いていいわけではなく、「正しく」用いられなくてはならないとも付け加える。ただし、仮にそれを不正に用いた者が出てきたとしても、その「不正者」は批難されるべきだが、それを授けた者が批難されるべきではないとも述べる。 ソクラテスは、弁論術がゴルギアスが言うには「正・不正についての説得」であり、またその「使用の正しさ」(心掛け)に言及するようなものでありながら、「不正に用いる者」が出てくることもある、という点に引っかかる。 弁論術が、無知な大衆を前にして、自分を、知識を持った他者よりも知識を持っているように見せる・思わせるだけのものであり、話題となるそれぞれの対象・技術を少しも知っておく必要が無い、「説得の工夫」を見つけ出しておきさえすればいいだけのものであるとして、「正・不正」「美・醜」「善・悪」に対しても、やはり同じように知っておく必要の無いものであるという扱いをするのか、それともそれらだけは別で、ちゃんと知っておかねばならないという扱いなのか、また、後者であるとして、ゴルギアスに弁論術を学ぼうとする者は、それらについての知識をあらかじめ持っておく必要があるのか、それともそれらも一緒にゴルギアスが教えてくれるのか、問う。 ゴルギアスは、もし学習者がたまたまそれら(正・不正)を知らないでいるのであれば、それらも併せて教えることになる、と答える。 ソクラテスは、そうなるとゴルギアスに弁論家にしてもらった者は、「正・不正」についても知っている者であり、「正しい人」「不正を行わない人」であるはずにも関わらず、先程の話では「不正を行う者」もいるという、果たしてその真相はどうなのかと疑問を提起する。
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