知識と哲学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 03:53 UTC 版)
プラトンの『テアイテトス』では、「知識」が主題的に扱われ、その定義についてソクラテスとテアイテトスが議論している。そこでは、知識とは「感覚」「真なる思いなし」「真なる思いなしに言論を加えたもの」であるとする3つの考えが提示され、検討されるが、これらのいずれも知識ではないと否定されることになる。 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』のなかで、知識を「ソフィア」(希: Σοφια)と「フロネシス」(希: φρόνησις)の2種類に区別している。 その後知識の定義については、認識論という分野で哲学者らが、今にいたるまで議論を続けている。 「認識論」も参照 現代英米の分析哲学では、知識の古典的定義としてプラトンの記述を考慮して、以下のものが用いられる。 ある認知者Aが「Xである」という知識を持つのは以下の場合、その場合にかぎる。 Aは「Xである」と信じており、かつ、 Aの「Xである」という信念は正当化されており、かつ 「Xである」は真である。 これを一言で言えば、「知識とは正当化された真なる信念である」ということになり、「客観的知識」と「主観的信念」とに単純に2分類してしまうような分析が長らく主流であった。 この様な硬直的な分析・決めつけに対しては、1950年代にゲティアが強力な反例を出した(ゲティア問題)。ゲティア問題とは、簡単にいえば、正当化された真なる信念を持っているにもかかわらず、どう考えても知っているとはいえないような状況が想像できる、という問題である。これをうけて、その後の分析系認識論では、ロバート・ノージックやサイモン・ブラックバーン、Richard Kirkham といった哲学者が知識の古典的定義に様々な形で手を加えて満足のいく分析を模索してきた。 それとは対照的にウィトゲンシュタインはムーアのパラドックスを発展させ、「彼はそれを信じているが、それは真ではない」とは言えるが「彼はそれを知っているが、それは真ではない」とは言えないと述べた。彼はそれに続けて、それらは個々の精神状態に対応するのではなく、むしろ信念について語る個々の方法だという主張を展開する。ここで異なるのは、話者の精神状態ではなく、話者の従事している活動である。例えば、やかんが沸騰していることを「知る」というのは精神が特定の状態になることを意味するのではなく、やかんが沸騰しているという論述に従って何らかの作業を実行することを意味している。ウィトゲンシュタインは「知識」が自然言語の中で使われる方法に目を向けることで、その定義の困難さを回避しようとした。彼は知識を家族的類似の一例と見た。この考え方に従えば、「知識」は関連する特徴を表す概念の集合体として再構築され、定義によって正確に捉えられるものではないということになる。
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