知られる存在に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 13:05 UTC 版)
「ジャスティン・トルドー」の記事における「知られる存在に」の解説
2000年、ピエール・トルドーの国葬の際に、28歳になったトルドーは人々の記憶に残る追悼スピーチを行った。 1998年に弟のミシェルがスキー旅行中に雪崩で死亡したことをきっかけに、冬季の安全に関わる社会運動を行うようになる。2003年、カナダ放送協会のラジオで毎年行われる「カナダ・リーズ(英語版)」(パネリスト5人が各選書を推薦し、その中から最優秀選書を決める)で、トルドーが推薦したのは、ジョーイ・スモールウッド(英語版)(ニューファンドランド州を1949年にカナダ連合加入まで導いた同州の政治家)の実話を元に描いた歴史小説 The Colony of Unrequited Dreams (ウェイン・ジョンストン(英語版)著、1998年)だった。 2000年前後には、私立学校ウエスト・ポイント・グレー・アカデミーで教師を務めた。この時期、学校で行われた『アラビアンナイト』をモチーフとした仮装パーティーにて、トルドーが顔を茶色く塗るメークを施しからかう姿(ブラックフェイス)が2019年、『タイム』誌で報道されると、トルドーは記者会見にて「人種差別主義者がやるようなことだった」と陳謝した。 2005年5月28日、モデルでテレビタレントのソフィー・グレゴワール(英語版)と結婚した。 カナダ・メディアのパーソナリティーとして活動した元カナダ首相の子供数人のうちの一人で、他にはベン・マルルーニー(英語版)、キャサリン・クラーク(英語版)、トルドーの弟アレクサンドルがいる。父ピエールとブライアン・マルルーニーは長年の政敵だったが息子同士には交流があり、トルドーの結婚式にベン・マルルーニーは出席している。 2006年9月17日、ダルフール危機対策へのカナダの参加を求めるため、トロントのラムスデンパークで行われた集会を主催した。 2006年10月25日、CTVのニュース番組『カナダAM(英語版)』で、国家としての認識されることを求めるケベック人たちをどう思うかと問われ、「ナショナリズムは思考範囲の小ささから出来るもの」と答えた。この発言は、ケベック州を国家として認めさせようとする、同じ自由党のマイケル・イグナティエフの姿勢を批判したものと受け取られた。 2006年カナダ自由党党首選挙(英語版)で、トルドーはジェラルド・ケネディ(英語版)を支持した。ケネディは第2回投票で、前環境大臣のステファヌ・ディオン(英語版)に敗れた。
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