高級社交クラブのシェフ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 07:10 UTC 版)
「チャールズ・エルミー・フランカテリ」の記事における「高級社交クラブのシェフ時代」の解説
王室料理長の職を辞した後、フランカテリはロンドン・ピカデリーの高級社交クラブ「コベントリーハウス・クラブ」 (Coventry House Club) のシェフ兼支配人となる。なお、この社交クラブはその後1869年に「セント・ジェームズ・クラブ」 (St James's Club) に改称し、ロンドンの最高級紳士クラブの一つとして社交界にその名を知られる存在になる。 1854年にフランカテリは当時ロンドン最高のシェフと評判されていたアレクシス・ソィエ (Alexis Soyer) が辞任した後任としてロンドンのペルメルにある高級社交クラブ「リフォーム・クラブ」 (Reform Club) の料理長に起用される。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンのイングランド人社会学者のスティーヴン・メネル (Stephen Mennell) は、中世から現代までの英仏の食文化を考察した著書の中で、「19世紀半ば頃にイングランドで最も名声が高かった料理人は、アレクシス・ソィエとチャールズ・エルミー・フランカテリの2人である」と述べている。また、当時リフォーム・クラブの会員で彼らと交流があったスコットランド人作家・ジャーナリストのチャールズ・マッケイは、自らの回顧録の中で、ソィエを「活気に溢れるが神経質、上品ではないが頭が良い、芸術家肌のフランス人」、フランカテリを「料理人としてソィエより上だとは言い切れないが、社会的地位が高く教養があり、礼儀正しく紳士的なイタリア人」とある意味で対照的な人物評を残している。ユードやソィエのように腕はピカイチだが使いにくいシェフに懲りた社交クラブ経営者には、フランカテリは後釜として最適な人材に見える紳士だったようである。しかし、フランカテリはリフォーム・クラブで7年間料理長を務めた後に解雇される。マッケイによると、彼がリフォーム・クラブを解雇された原因は、彼の料理人としての腕ではなく取締役への態度にあり、「店のオーナーであるかのようにふるまうようになったフランカテリを取締役会が追い出したが、名声が高い彼は直ぐに次の良い仕事を見つけた」ということで、既に名声を確立し料理人として引く手数多のフランカテリは、彼を煙たがるオーナーに解雇されても金銭的に困るような状況では全くなかったようである。
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