矢作水力・日本電力の供給
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:28 UTC 版)
「東邦電力」の記事における「矢作水力・日本電力の供給」の解説
長く名古屋電灯の独占的供給区域であった名古屋市内へ最初に新規参入したのは矢作水力であった。1921年(大正10年)6月、名古屋市内と同年8月に市へ編入される周辺の13町村を1構内100馬力以上の供給に限る制限付電力供給区域とする許可を得たのである。ただ同社は名古屋電灯社長の福澤桃介が創業した電力会社であり、こうした電力供給区域の設定も名古屋電灯の了解を得たものであった。同社の市内における大口需要家には、1939年末時点では港区の矢作工業・昭和曹達(どちらも東亞合成の前身)と矢作製鉄があった。なお3社とも矢作水力の子会社にあたる。 次いで1923年(大正12年)8月、すでに岐阜県岐阜市とその周辺を電力供給区域としていた日本電力が、愛知県でも名古屋市・愛知郡・西春日井郡を1構内50馬力以上の供給に限る制限付き電力供給区域とする許可を得た。許可後の同年9月、日本電力は名古屋市に営業所を開設し需要家獲得に乗り出す。東邦電力の需要家の中に日本電力への契約切り替えを図るものも出現したことから、東邦電力では日本電力の進出を脅威ととらえ、東京進出の計画を立案中の折でもあることから日本電力との競争を避ける道を選んだ。その結果、翌1924年(大正13年)3月、前述の通り東邦電力は日本電力から10万kWに及ぶ大量受電契約を締結。日本電力は契約成立または商談済みのものを除き、愛知・岐阜両県下における東邦電力の既契約を侵さないという市場分割が成立した。 その後設備の完成を待って、日本電力は1924年10月から順次服部商店・愛知時計電機などへの供給を始めた。供給契約はすべての需要家をあわせて1万kWであった。1939年末時点では、矢作水力と異なり名古屋市内において3,000kW以上を供給する大口需要家は存在しない。
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