相見川の開削
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:18 UTC 版)
相見川の開削以前、岡崎市の針崎・若松・上地及び幸田町の坂崎・長嶺・久保田・大草・菱池一帯の地域は、額田郡はもちろんのこと、愛知県でも有数の水害地であった。その主因は、起伏している一連の丘陵が皆裸山であることであり、そこから流れ出る土砂は、長い年月の間に河床を高くし、その高さが3メートル余りに達するところもあった。豪雨により一度堤防が切れてしまうと、その被害は計り知れないものであった。 こうした水害による作物の減収は村民たちを苦しめ、水害が起こるたびに村民の暮らしに打撃を与えた。そのため、村民にとって川替え工事により治水することは、かねてからの願いであった。現存する資料によると、「川替え願書」が文化11年(1814年)に坂崎地区から提出されたが、結局却下されたようである。 明治時代になると、国や県が治山治水に力を入れるようになった。1873年(明治6年)に坂崎村でも「川替え」の議があり、仮測量を行い県へ申請した。しかし、関係数か村の協議がまとまることはなく、さらに1875年(明治8年)・1876年(明治9年)にも願書が提出されたが、認可されなかった。 その後数年が経過した1882年(明治15年)、9月下旬に雨が続き、特に30日朝から翌10月1日の豪雨では三嶋堤(岡崎市)が決壊する大惨事となり、坂崎も河川が決壊するなど大被害を被った。 これにより直ちに相見川掘削工事の実測、設計が行われた。地元の意志も固く、1882年(明治15年)10月28日に着工式を挙げることになった。 この工事に携わったのは、ほとんどが地元及び隣村の者であった。工具は唐鍬・備中・平鍬を使い、運搬には土もっこを使い、すべて人の手や方に頼ったものであった。したがって労働作業は極めて厳しいものであった。工事の後半には箱車ができ、これが使用されたのは三河地方では初めてであった。 この工事は起工以来わずか10か月で完成し、1883年(明治16年)10月3日には竣工式が挙行された。総工費は5万8千余円といわれた。
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