相続・子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 01:25 UTC 版)
康勝には庶子・平十郎(勝政)がいた。ところが、家老の中根吉衛門、原田権左衛門、村上弥右衛門(村上吉春)の3名は、幼君では武功を立て難たく、立身を望めないと策謀して、幕府・家康からの質問に対し康勝に嗣子なしと回答したという記事が『横須賀覚書』に見える。その後、家老の悪事が発覚して3名は流罪にされたという伝承もあるが、康勝が亡くなった後もこの三家は榊原家に仕え、元和5年(1624年)には二代将軍・徳川秀忠から各々1千石の相続公知が認められ(御附家老参照)、以後も代々幕府からの朱印地及び榊原家からの知行地は継承されているため、事実とは異なる。榊原家の『綏定録』には平十郎は3歳まで病身であり、かつ康勝の実子としてのお披露目もなされないうちに康勝が死去してしまったため、忠次が養子に迎えられたとしている。 家康は康勝の長兄で大須賀家に養子に出ていた大須賀忠政の子の大須賀忠次(康勝からは甥に当たる)に対し、榊原の名跡継承の意志を問うた。忠次側より榊原の名跡を継ぎたいと回答があったため、忠次が榊原氏に復帰し、相続をすることになった。徳川四天王の血統が絶えるのを懸念した徳川家康の命により、忠次が10歳で榊原氏館林藩10万石を相続したとも、忠次自身の希望で榊原家相続となったともされる。またこれにより、大名大須賀氏は絶家となった。 しかし後に、養母の本浄院(古屋)が武蔵国岩槻藩の世子・阿部政澄に再婚することになり、その際に養っていた勝政の存在を幕府に報告した。平十郎勝政は養母の実家である熊本藩主・加藤忠広に預けられるなど流転したが、後に幕府より1,000俵を与えられ、その子・勝直から旗本榊原氏が始まる。後に勝直の子の政邦が榊原本家を継いだ。
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