相原の改心と謝罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 01:48 UTC 版)
相原尚褧が恩赦となった当時、板垣退助は東京市芝区愛宕町の寓居に住んでいたが、相原は河野廣中、八木原繁祉両氏の紹介状を得て、同年5月11日、八木原氏に伴われて板垣に謝罪に訪れた。板垣は相原に「この度は、つつがなく罪を償はれ出獄せられたとの由、退助に於ても恭悦に存じ参らす」と声をかけると、相原は畏まり「明治15年(岐阜事件)の時の事は、今更、申すまでもございませんが、更に、その後も小生の為に幾度も特赦のことを働きかけて下さった御厚意につきましては幾重にも感謝している次第であります」と礼を述べた。そして相原は逮捕直後に岐阜で撮影された自分の写真を一枚取出し「これを御覧ください。これは小生が伯(板垣)を怨んでいた頃、岐阜で撮影した写真でございます」と板垣に見せた。板垣は「そうでございますか。その時よりは如何にも今は年が老られて見えます。私の知人で自由民権運動家の者で、北海道の監獄に入った者も出獄した時には例外なく年老て見えます。久しき間の御苦労をお察し申し上げます」と感想をもらした。さらに相原はまた一枚の写真を取出して板垣に見せた。「これは、特赦の後に撮影した最近のものですが、小生が謝罪に参りました記念の証として差し上げたいと思っております。伯ももしよろしければ、ご自身のお持ち合せの写真を一枚頂けないでしょうか」と尋ねた。板垣は「左様ですか。いかにも私も一枚、お渡ししたいのですが、近頃、写真を撮る機会が少なくて生憎、今、手許には、一枚もありません。高知の家にはあったと思いますので、帰郷した折を見て必ずお贈りしましょう。もしくは、ここ東京で写真を撮影する機会があればそれをお送りすることが出来るかもしれません。必ずお送りしますのでお待ち下さい」と云った。さらに板垣は「私(退助)は今も昔もひとつも変わらず常に国家の事を考えて行動し、自ら『自分こそが国家の忠臣だ』と信じておりましたが、当時、貴殿は退助を以て社会の公敵と見做し刃を退助が腹に突き立てました。その二人が今は相い互いに相手の事を気遣って出会うとは、人の心の変遷はおかしなものです。後世の史家はあきれるでしょう…」続けて板垣は次のように言った。 「併(しか)しながら若(も)し此後、退助が行う事にして如何にも國家に不忠なりと思はるゝことあらば、その時はこう斬らるゝとも、刺さるゝとも君が思ふが儘に振舞ひめされよ」と申されたり。(中略)引續き種々の話ありたりしが、君(相原)が「もはや暇を玉はるべし」といはれしとき、伯(板垣)は起ちて「北地極寒、邊土惨烈と聞くが、御國の爲めに自愛めされよ。退助は足下(きみ)の福運を祈り参らする」と申されたり。 このようにして板垣は、相原の再出発を見送った。 しかし相原は殖民開拓の為、北海道へ渡る途上、遠州灘付近で船上から失踪した。船から落とされた、自殺した、または相原の背後で板垣殺人を企てていた組織に殺されたとも言われている。享年36歳。
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