直隷派の中心人物に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 14:36 UTC 版)
1912年(民国元年)、中華民国が成立すると、鎮は師に改められ、王占元率いる第2師は保定に駐屯した。1913年(民国2年)、二次革命(第二革命)が勃発すると、王は革命派の鎮圧に従事した。この軍功により、陸軍上将銜などを授与されている。1914年(民国3年)3月、豫南剿匪総司令を兼任して、白朗討伐に従事した。4月には湖北軍務幇弁となった。1915年(民国4年)、袁世凱の皇帝即位を支持し、10月、壮威将軍の位を授与された。12月、袁の皇帝即位とともに、王は一等侯に封じられている。同月、護国戦争(第三革命)が勃発すると、王は襄武将軍督理湖北軍務(いわゆる湖北将軍)に任命された。 袁世凱が1916年(民国5年)6月に死去すると、翌7月に王は湖北督軍兼民政長に任命された。府院の争いでは国務総理段祺瑞を支持し、他省の督軍たちと国会の解散を要求するなど、総統黎元洪に圧力をかけた。しかし、馮国璋率いる直隷派と段率いる安徽派の争いでは、王は直隷派の重要人物となる。護法戦争を起こした南方政府への対応をめぐって、「武力統一」を唱える段に対抗し、「和平統一」を唱える馮を補佐した。 段祺瑞が湖南省に南方政府討伐軍を派兵しようとすると、王占元は、江蘇督軍李純、江西督軍陳光遠と共にこれを阻止する姿勢をみせる。結局、段は湖南征伐を断念した。これ以降、李・王・陳の3督軍は、「長江三督」として国政で注目を受けるようになる。1919年(民国8年)12月に馮国璋が病没すると、曹錕が直隷派の指導者となった。王は引き続き、その有力支持者となる。1920年(民国9年)6月、王は両湖巡閲使に任命された。翌月の安直戦争では、安徽派の長江上游総司令呉光新を逮捕して、その軍を没収している。これにより王の勢威は拡大された。
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