直江宗家とは? わかりやすく解説

直江宗家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 09:31 UTC 版)

直江氏」の記事における「直江宗家」の解説

直江氏動向直江親綱の代までは明確でなく、表舞台現れるのは戦国時代入ってからである。 元は本与板城主・飯沼氏の旗本であったが、永正11年1514年)に飯沼頼清が長尾為景によって滅ぼされると、長尾氏臣従本与板城主(後に与板城主)となる。親綱の子景綱長尾景虎(後に上杉謙信)の旗本として政治・軍事両面において活躍し重用された。景綱には男子無く総社長尾氏から長尾藤九郎を娘・お船の婿に迎えた直江信綱)。景綱の後を継いだ信綱は、御館の乱上杉景勝方に付いて勝利貢献し景勝の下でも直江氏重用された。1581年に信綱が暗殺されると、景勝側近樋口兼続未亡人となったお船の婿となって直江氏当主となる(この頃お船養母される子は出家して高野山入ったという。名を清融と言う。)。 兼続豊臣秀吉接近して家中での地位高め要職ことごとく自らの与党押さえて絶大な権勢誇り会津転封後は陪臣身ながら米沢30万石与力含む。私領は6万石)を領した秀吉没後景勝徳川家康対立する徹底抗戦唱え、自らも2万余の兵を率いて徳川方最上義光戦った敗北喫した関ヶ原の戦い東軍勝利し上杉氏米沢へと減移封されて以後兼続徳川家重臣・本多正信接近しその子重に娘・於を嫁がせて婿養子迎えた直江勝吉)。さらに翌年に於亡くなると、姪の阿虎を養女として政重に嫁がせた。その結果正信仲介嫡男景明の嫁に膳所藩戸田氏鉄の娘を迎えることに成功した兼続は、江戸時代入って権勢保持し続けた。政重が金沢藩帰参すると、景明誕生前養子であった本庄長房はじめとする多く家臣が政重を追って阿虎と共に加賀へ赴き、政重に仕えた加えて景明が父に先立って急逝したため、兼続後継者欠いたまま死亡した。再び未亡人となったお船養子迎えなかったため、直江宗家は断絶した米沢藩では、一門高家畠山氏畠山義春末裔)らを中心に兼続上杉家減封もたらした奸臣評され[要出典]、米沢移した直江氏菩提寺徳昌寺破却されて与板追放されるなどした。しかし20世紀に入ると一転して兼続称讃されるようになり、従来評価一変して今日至っている。

※この「直江宗家」の解説は、「直江氏」の解説の一部です。
「直江宗家」を含む「直江氏」の記事については、「直江氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「直江宗家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「直江宗家」の関連用語

1
16% |||||


直江宗家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



直江宗家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの直江氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS