直江兼続との暗闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 22:39 UTC 版)
秀吉の命による大名の国替えの際は、年貢米は半分のみ徴収し、残りの半分は後に来る領主のために残しておく決まりになっており、上杉氏と堀氏にも同様の取り決めがあった。しかし、直江兼続と石田三成の謀議により、年貢米は全て持ち去られていた(『越後風土記』)。堀家はやむなく、新潟代官河村彦右衛門から2千俵の米を借りた。兼続は河村とは旧知の間柄のため、直政からの借米証を入手して、秀吉の死後さかんに返済を督促した。 景勝は慶長4年(1599年)、伏見から会津へ帰国すると所領にて武具兵糧の購入、砦や橋の修繕、浪人雇用など軍備増強を図った。直政はこれらの実情を徳川家康に報告し、これを受けて徳川家は家臣・伊奈昭綱を使者として会津に送った。その返答が直江状であるが、その中で、越後への野心を問われた際に「久太郎(秀治)を踏みつぶすのは造作もない、監物(直政)が色々言ってくるのは武道を知らず慌てているせいだろう」と堀家を侮っている(なお、直江状は後世の創作との指摘もある)。 家康は上杉討伐の軍を組織し、秀治にも「津川口から会津へ攻め入るべし」との書状を送った。これについて堀一族で合議した。直寄は「太閤(秀吉)の恩に報いるため上杉と組むべき」と主張した。ところが直政は「太閤のみの恩ではない、信長公の御恩から起こったのだ」と主張した。その上で「秀頼公の本心ではない、公の御為にもならない、家康の勝利は必定である」と言うと、一族は皆同意した。戦への備えをし、家康の指示を待った。 この後、三成からも「前田利長、丹羽長重ら北国の諸将は上方に従ったので、ともに北国の通路を開き、上杉景勝に協力して忠節を果たせ」との書状が届いた。三成の策略と見抜いた直政は、三成には善きように返答し、前田家へ問い合わせ利長が家康に二心ないことの確認をとると、家康方に付く決心を強くした。なお、三成は兼続に対し、「越後をまた上杉に与えてやる、これは秀頼公の内意だ、堀秀治も大坂側である」との書状を送っている。
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