白人移民の増加によるショーショーニー族の飢餓
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「ベア川の虐殺」の記事における「白人移民の増加によるショーショーニー族の飢餓」の解説
カリフォルニア・トレイルとオレゴン・トレイルが確立され、1847年にはソルトレイクシティが設立されたことで、ショーショーニー族は西進する白人移民と常に接触するようになった。1856年までに、ウェルズビルを初めとしてキャッシュ・バレーでは初の恒久的入植地と農場が造られ、次第に北方へ延びていった。 当時、モルモン教徒の主導者であるブリガム・ヤングは、モルモン入植者が周辺の先住インディアン部族と友好的な関係を築き上げることを提唱し、特に「戦うよりも食べさせる」方針を強調した。しかし、この方針とは裏腹に、白人は野生の食糧資源を採りつくし、さらに彼らによる土地の収奪のために、次第に狩猟採集民であるショーショーニー族は食べ物の少ない地域に追いやられることになっていった。さらに、西へ向かう幌馬車隊の白人たちが食料調達したり狩猟を行うことで、ショーショーニー族からさらに食資源を奪う結果となった。1859年には既にユタ準州インディアン問題監督官ジェイコブ・フォーニーがこれを認めるところとなり、「インディアンは...白人が入ってくることによって貧窮化が進んだ」と記している。フォーニーはさらに、キャッシュ・バレーにインディアン保留地を造って、ショーショーニー族にとって基本的な資源を守ることを提案した。この提案をアメリカ合衆国内務省とその上官は無視した。ショーショーニー族は絶望的に飢えてきており、報復のためではなく、生き残るために近くの農場や牛牧場を襲うようになった。 1862年早春、ユタ準州インディアン問題監督官ジェイムズ・デュアン・ドティはキャッシュ・バレーで4日間を過ごし、「かなりの数のインディアンが飢えて貧窮した状態にある。私の前任者は彼等のために何の対策もしていないし、衣類や食料も無い。...インディアン達は生きていくために、交易所に泥棒に入りかねない状況だ」と記した。ドティは食料を買い求め、それを暢気に分配した。インディアン達に家畜を与えれば、乞食ではなく牛飼いにすることができると考えたのである。 1862年7月28日、キャッシュ・バレーの真北にあるモンタナ準州南西部の山岳地、グラスホッパー・クリークでジョン・ホワイトが金を発見した。このことで、金鉱に最も近い物資供給点であるソルトレイクシティと、鉱山キャンプの間に、キャッシュ・バレーの中央を抜ける移民と物資供給の道ができた。 ショーショーニー族は定住を行わず、獲物を追って移動生活をおくっていた狩猟民族である。米軍は以後、彼らの足取りを追うことに躍起となっているが、そもそも「放浪」はショーショーニー族の伝統文化である。
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