病気の再発〜晩年
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「高橋正弘 (サッカー指導者)」の記事における「病気の再発〜晩年」の解説
1989年(平成元年)、国民体育大会が35年ぶりに北海道で開催されることになった(第44回国民体育大会〈はまなす国体〉)。サッカーの試合は室蘭で開かれることとなり、高橋は少年の部の監督として采配を振ることになり、まさに晴れ舞台だった。室蘭大谷は京谷和幸や、後にプロで活躍する深川友貴や三上大勝らを揃え、全国上位進出は確実視されていた。 しかし病気を押しての監督業は、確実に高橋の体に大きな負担をかけていた。開幕直前の同1989年に再生不良性貧血が再発して再入院の身となり、脳血栓により右半身不随の身となった。糖尿病も併発し、その悪化で視力はほとんど失われた。両脚も不自由になり、車椅子の使用を強いられた。教壇からも退いた。 妻は献身的に高橋に尽くし、自宅に下宿させている部員たちの相談役を務めると共に、夫の病室ではテレビの試合を口頭で説明した。自分の目となり手足となる妻を、当時の高橋は「全国の高校サッカー監督の妻で、自分の妻ほどサッカーを知っている人はいない」と語っている。そして高橋は妻の言葉をもとに、病室に引いた電話で現場のコーチに指示を送る日々を続けた。病室には連日、教え子が指導方法を請いに来たり、高橋を慕う人々が訪れた。部員が訪れたときは、嬉しさを隠しつつ「おまえら、何やってるんだ」と叱りつけた。その熱意に応え、三上大勝らは「監督に心配をかけないように、しっかりやろう」と、部員たちと優勝を誓い合っていた。 1991年(平成3年)春に退院したものの、周囲に迷惑をかけないようにと、監督業を後進に任せ、自らは総監督に退いた。 引退後は自宅のベッド暮らしで、人工透析を受け続ける闘病生活を送った。その後もOBや本州のサッカー指導者らが、頻繁に高橋のもとを訪れる日々が続いた。ときには「俺がいるだけで選手たちは違う」と、病気を押して現場に向かうこともあった。1996年(平成8年)8月12日、腎不全により死去。満52歳没。本葬での葬儀委員長は、北海道サッカー協会会長の樫原泰明が務めた。
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