画風高揚期・噲々(かいかい)落款時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:00 UTC 版)
「鈴木其一」の記事における「画風高揚期・噲々(かいかい)落款時代」の解説
其一は抱一の四十九日を過ぎてすぐ、文政12(1829年)2月に願い出て、それまでの家禄を返上する代わりに一代画師となった。普通なら姫路藩士として通常の勤務に戻るのが通例であるが、一代画師を選択したのに其一の特異性をみる意見もある。5人扶持・絵具料5両を受け、同時に剃髪し、天保3年(1832年)11月には絵具料を改定されて、9人扶持となる。翌年京都土佐家への絵画修業を名目に50日の休暇を申し出て、2月13日から11月にかけて西遊する。この時の日記『癸巳西遊日記』が、京都大学附属図書館谷村文庫に残されている。其一は、古い社寺を訪ね回り古書画の学習に励むなかで師の影響を脱し、独自の先鋭で近代的な画風へ転換していく。落款も「噲々其一筆」などと記す、いわゆる噲々落款に改め、この後10年程用いた。「噲々」とは『詩経』小雅が出典で、「寛く明らかなさま」「快いさま」を意味する。天保12年(1841年)から弘化3年(1846年)にかけて、抱一が出版した『光琳百図』の版木が焼けてしまったため、其一が複製して再出版している。その制作過程における、宗達や光琳作品の図様や構成法の再学習は、この後の画風に影響を与えたと見られる。天保13年(1842年)の『広益諸家人名録』には其一ではなく、息子守一の名が記されていて、その頃既に家督を譲っていたのではないかと推定されているが、当時の人名録には当主だけではなく隠居、兄弟、子女も掲載される例は多数あり、別の事情により其一は選外になったとみる向きもある。
※この「画風高揚期・噲々(かいかい)落款時代」の解説は、「鈴木其一」の解説の一部です。
「画風高揚期・噲々(かいかい)落款時代」を含む「鈴木其一」の記事については、「鈴木其一」の概要を参照ください。
- 画風高揚期噲々落款時代のページへのリンク