球団側の対応
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発覚当初藤村がどのような反応を示したかについては複数の見解がある。『デイリースポーツ50年史』には、最初に報道した当日に練習後のロッカールーム(甲子園球場と思われる)のミーティングで藤村が「吹けば飛ぶよなケチな連中がなにをごちゃごちゃぬかしとんじゃ。文句があったらブンヤ(引用者注:新聞記者)に告げ口なんぞせず、束になってかかってこい」と啖呵を切ったという証言がある。青木は著書で、新聞に「こんなに騒ぐ選手は、来季、2軍にでも落としてやる」という藤村のコメントが出たことで、事態の収拾を求めてきた野田オーナーに「あの藤村監督の談話は何だ!」と突っぱねたと記している。しかし、藤村自身は1960年代の座談会で「世間に対しては私の立場について、一つもしゃべっていない」と述べている。1956年11月16日の読売新聞でも「世間が一部選手をあおっていると思う。私としてはしばらく沈黙を守るのが一番よいだろう」というコメントが紹介されている。 野田オーナーは病床にあった田中義一に代えて、11月15日に本社東京事務所長であった戸沢一隆を球団代表に任命。戸沢は16日に全選手を甲子園球場に集め、南海とのオープン戦遠征中に事態を悪化させないよう自重を求めた。同じ日、戸沢は青木に事態収拾の協力を求めたが、青木が拒否したため、「事件の黒幕」として青木を解雇した。11月22日から戸沢はオープン戦の遠征に同行して選手から話を聞き、解決の道筋を作ろうとするが軟化には至らなかった。11月28日に野田オーナー・阪神電鉄本社の前田常務・球団の戸沢と下林の4人が会議を開き、藤村の留任と、金田・真田とは来季の契約を結ばないことを決定し、12月4日に球団事務所で発表した。一方、青木はその前日付で大映に入社した。 金田・真田と契約を更改しないという通告は両者を呼び出して直接なされた。金田は後年のインタビューでは、義父の死去などで退き際を考えていたため、「クビを申し渡されてほっとした。『ありがとうございました。お世話になりました』と言って帰った」と述べている が、真田重蔵は通告を受けて金田が泣き出したため「泣いたらいかん、男らしく引き上げよう」と言って退出したと述べている。金田はそのあと会見を開き、タイガースを強くするために考えてやったことだといった内容の発言をした。これを受けて「排斥派」の選手は態度を硬化させ、「徹底的にやろう」と結束を固めた。発表の前から戸沢は会見した選手に契約更改を打診していたが、選手はこれに応じていなかった。発表後は球団側が契約更改のために呼び出しても出頭を拒んだ。一方、沈黙を守っていた藤村は、「こうなった以上は、来年は2軍を鍛えてペナントレースに臨む」と発言し、これが報道されて選手をさらに刺激する事態にもなった。
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