無頼と刺青
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
安史の乱後の客戸とよばれる農業人口移動の増大や都市の発展とともに、唐代後半に大きな存在になったのが、無頼である。 遊民層にもっとも目立つ存在で、生業につかず、規範や道徳を嫌って衝突する人間たちが無頼と呼ばれた。無頼はまた、博打を好んだため「博徒」と呼ばれ、暴力を誇り、都市の市場を主な活動範囲としていた。彼らは出身階層に関わらず、個人の資質によって存在した。若者が多かったため、悪少年、軽薄少年とも呼ばれた。無頼となり、家族や故郷と別離して都市に流れてくるものも多く、長安に客戸坊というスラム街をつくっていた。彼らが治安を乱すことが多く、盗賊になることもあった。大室幹雄は、彼らの行動動機は「生の過剰」によるものであると評している。 唐政府は無頼を弾圧したが、府兵制崩壊後は、無頼が募兵の重要な供給源となり、罪を犯しても軍に逃げ込み、逃れるものが多く、無頼は次代の五代十国時代にはさらに増加した。また、無頼の組織化もはじまっていた。 盗賊となった無頼には、強盗の時に殺人を行い、食人するという習慣が生まれていた。宿屋に絵を描き、仲間に連絡を行うということもなされていた。 この時代、かつては犯罪者の証であった刺青が流行し、無頼の多くが刺青を行っていた。左右の腕には漢詩を彫ることが多く、全身に漢詩全てを描くこともあった。背中に毘沙門天や、全身くまなく、蛇などを彫る技術も存在し、刺青を彫ることを商売にしているものもいた。刺青は傷をつけて墨をいれるもの、針がついた印で押して墨を刷り込むものがあり、様々な技術と工夫があった。
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