満洲国への飛行
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1934年(昭和9年)10月には、松本キクとともに満州国建国親善飛行を敢行した。 飛行には長山が同行する予定であったが、9月21日に飛行機事故に巻き込まれて瀕死の重傷を負った。このため、一等飛行操縦士の朴奉祉教官が同行することになった。使用機種は郷里訪問時と同機種のサルムソン2A2型陸上機で、「黄蝶号」と命名された。10月26日に東京・羽田飛行場を出発。11月3日に福岡・大刀洗飛行場から朝鮮半島の蔚山に渡って給油、その日は京城にまで至った。11月5日、新京に到着。同時に松本キクも「白菊号」(同乗者:佐藤啓三整備士)で満洲への訪問飛行を行っており、10月22日に羽田を出発、テフ子より1日早く11月4日に新京に到着した。両機の「競争」は注目を集め、新聞が連日のように報道した。両機とも途中故障不時着や悪天候を経験しながらも、馬淵は松本と共に日本女性飛行士として初の海外渡航を実現した。なお、白菊号および黄蝶号は現地の小学校に寄贈され、馬淵は船と汽車で帰国した。 テフ子の飛行士としての活動は、この満洲国飛行が最後となった。ドイツへの飛行を計画していたが、1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発したために断念。また、女性が飛行機に乗ることは認められなくなった。対米開戦後、日本軍が快進撃をおこなっていた1942年(昭和17年)1月、女性飛行士の親睦会「紅翼会」の回覧誌にテフ子は、女性には飛行機を駆って活躍できる機会がないことを嘆く文章を寄稿している。
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