測距儀の導入と方位盤の挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:28 UTC 版)
「方位盤」の記事における「測距儀の導入と方位盤の挫折」の解説
海戦では、艦の動揺が避けられないこともあり、艦砲を厳密に照準するよりは敵に近接することを重視する時代が長く続いた。その後、19世紀初頭より、艦船における砲射撃のための初めての道具として、タンジェント照準器(Tangent Sight)が導入され、砲に適切な方位角・俯仰角を設定して射撃することが重視されるようになった。ライフル砲の登場で弾道誤差が減少したこともあり、19世紀を通じて、照準器の改良が重ねられていった。 そして射距離の延伸とともに、適切な俯仰角を設定するために目標距離を把握する必要が生じた。様々な施策が試みられたのち、1891年、イギリス海軍本部は、海軍用測距儀の懸賞募集を行なった。翌年にはアーチバルド・バーとウィリアム・ストラウドの案が採択された。これは単眼正分像合致式を採用しており、距離プリズムを移動させて上下の正立分像を一致させて距離を求めるものであった。またこのとき、アメリカ海軍のフィスク大尉はホイートストンブリッジの原理を応用して、ある程度離して配置した2つの望遠鏡の方向角の差を用いた測距器を提案しており、イギリス海軍では採択されなかったものの、測距儀が破壊された場合の予備として、大日本帝国海軍で採用された。 このように射撃精度の向上が図られたものの、複数門搭載されている各砲の照準・発射は独立に行われており、艦としての統一性はなかった。また砲は主として甲板上のように低い位置に設置されていたため、艦の動揺や波浪、また砲自身の硝煙などにしばしば視界を妨げられ、安定した照準が得られないことも多かった。 このことから、19世紀後半には、砲側の照準器とは別に、砲煙にあまり妨害されない高所に照準器を配することが試みられた。これが方位盤の萌芽であり、当初は照星と照門からなる肉眼照準器を、方位を示す角度盤に取り付けた装置であり、これで目標を照準することで得られた旋回角・俯仰角を砲の管制に使用するというものであった。ただし当初は機器の信頼性や信号伝送などの課題を解決できず、用兵側からの評価は低かった。戦艦の防御力の強化とともに、砲塔や砲郭は孤立化し、発砲諸元の伝達応答等が困難になったこともあり、個々の砲台で最善を尽くす独立打ち方の系列が支配的になった。
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