渡辺修
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渡辺 修(わたなべ おさむ)
- 渡辺修 (通産官僚) - 元日本貿易振興機構(ジェトロ)理事長。元通商産業事務次官。
- 渡辺修 (厚生官僚) - 元環境事務次官
- 渡辺修 - 渡辺顗修(わたなべぎしゅう)のペンネーム。博士(法学)(刑事訴訟法)。甲南大学法科大学院長。
- 渡辺修 (ジャーナリスト) - 産経新聞でボン支局長・本社外信部長、フジテレビで報道局長・国際局長・常務取締役などを歴任。
- 渡辺修 (自然科学者) - 自然科学者。財団法人休暇村協会理事長。
- 渡辺修 - 俳優。「あの夏、いちばん静かな海」に出演。
- 渡邊修 - 明治から昭和にかけての政治家(衆議院議員)、実業家。
- 渡辺修 (経営者) - 実業家。1970年生まれ。
- 渡辺修 (歴史研究家) - 歴史研究家。著書に『神宮伝奏の研究』
- 渡辺修 (ゴルファー)
渡辺脩
渡邊修
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ナビゲーションに移動 検索に移動渡邊 修(わたなべ おさむ、安政6年12月10日[1](1860年1月2日) - 昭和7年(1932年)10月15日)は、明治期の官僚、政治家。正六位勲四等。
経歴
伊予国宇和郡岩谷村(現・愛媛県北宇和郡鬼北町)生まれ。15歳で宇和島に出て南洋学校に入り、1881年(明治14年)慶應義塾本科を優で卒業。中外商業新報記者となり1882年(明治15年)、農商務省御用掛となる。1884年(明治17年)外務省に転じ、1896年(明治29年)特許局審判員となり、後藤新平が逓信大臣となるや知遇を受けて逓信書記官となり、日清戦争の役の功により金五百円を下賜される。長崎郵便電信局長在任中の1902年(明治35年)9月、同年4月に市制施行した佐世保市の初代市長に就任したが市議会多数派との関係が円滑を欠いたこと等から1期務めたのみで1906年(明治39年)4月に退任した。市長在任中に郷里の愛媛県において衆議院議員(立憲政友会所属)に選出され7期務めた。
その他、愛国婦人会、日本赤十字社、大日本武徳会、水難救済会、大日本水産会、海員液済会等に携わり、大正11年には立憲政友会の支那視察団の団長として南北支那を見聞し、帝国経済会議員等も務めた。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - ・明治三十七八年従軍記章[3]
脚注
参考文献
- 『慶應義塾出身名流列伝』三田商業研究会編、実業之世界社、1909年(明治42年)6月、247-248頁。(近代デジタルライブラリー)
- 『財界物故傑物伝下巻』野依秀市、実業之世界社、1936年(昭和11年)。
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固有名詞の分類
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