清水多栄
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清水 多栄(しみず とみひで 1889年5月1日 - 1958年1月30日)は、日本の医学者、生化学者。
経歴
1889年(明治22年)、東京府西多摩郡に生まれる。1915年(大正4年)に京都帝国大学の荒木寅三郞(岡山にあった第三高等学校医学部の元教授)の医化学教室に入り、胆汁酸の研究を始める[1]。1920年(大正9年)にドイツに留学。フライブルグ大学でハインリッヒ・ヴィーラントの下で学ぶ。1923年(大正12年)に岡山医科大学教授となり生化学教室を主宰した。
1927年(昭和2年)、熊胆からのウルソデオキシコール酸(UDCA)の単離・結晶化に成功[2]。成功に至るまでヒキガエル4000匹、イモリ10万匹、さらにクマ、魚、鳥、豚など多くの動物から胆汁を採取したことが伝えられる。1928年(昭和3年)再渡欧して再びハインリッヒ・ヴィーラントの下で学ぶ[3]。 1938年(昭和13年)5月、『胆汁酸の化学と生理』で帝国学士院賞を受賞[4]。 1940年(昭和15年)に岡山医科大学長兼教授。1945年(昭和20年)に岡山医科大学学長を辞職するも、1946年(昭和21年)に広島県立医学専門学校の校長を兼任。同医専の医科大学昇格(広島県立医科大学)、新制医科大学(広島医科大学)、国立大学(広島大学)への移管に尽力した[5]。 1950年(昭和25年)、日本学士院(当時の第二部自然科学部門)会員になる。同年11月14日には、新会員一同が昭和天皇から皇居に招かれ午餐を陪食。食事後には、清水を含む新会員が各自の研究を奏上した[6]。 1952年(昭和27年)岡山大学学長に再選された。1958年(昭和33年)、在職中に心筋梗塞により死去。
著作
- 『膽汁酸の化學と生理』(研精堂印刷所 1936年)
脚注
- ^ “岡山大学医学部・病院の歩み”. 岡山大学. 2025年1月31日閲覧。
- ^ “代表者のご挨拶(胆汁酸研究会)”. 東京医科大学茨城医療センター 共同研究センター (2023年7月3日). 2025年1月31日閲覧。
- ^ “岡山大学学長 清水多栄 胆汁酸の研究 肝臓生合成 初の仮説”. 山陽新聞社 (2007年6月4日). 2025年1月31日閲覧。
- ^ “医学部の沿革”. 岡山大学. 2025年1月31日閲覧。
- ^ 日外アソシエーツ『20世紀日本人名事典』2004年(コトバンク)
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十一』東京書籍、2017年3月30日、154頁。ISBN 978-4-487-74411-4。
岡山大学学長
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