浅野石油部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 07:57 UTC 版)
大学で同窓だった白石元治郎に誘われて、1895年(明治28年)浅野石油部(浅野財閥)に転職した。1896年(明治29年)7月に渡米すると油田や製油所を視察して、チャーレス・ハースを浅野石油部に招聘し、1897年(明治30年)春に帰国した。そして米国式の円筒形鉄製油槽車五両を1898年(明治31年)に深川車両工場に製造させたが、これが日本最初のタンクカー(異説あり)とも言われている。1899年(明治32年)12月に浅野鑿井部の部長として新潟県柏崎に赴任すると、数百万坪の鉱区を買い取り、翌年から油井を掘った。チャーレス・ハースが考案した、当時としたは先進的な水圧ロータリー式鑿井機を用いたが余り成果がなかった。近藤会次郎は最新の米国式製油施設に倣って浅野柏崎製油所を設計すると、1900年(明治33年)3月から製油所の工事を監督した。蒸溜釜を五機並列にし、コンデンサーを木槽ではなく鉄槽にし、黄銅管ではなく鉄管を用い、螺旋式ではなく並行式にし、洗浄槽に圧搾空気による撹拌装置と揚酸機を設置し、千石の大型タンクを設置した。これは規模でも設備でも当時一番だった。1902年(明治35年)3月に浅野柏崎製油所と浅野鑿井部の一部が宝田石油と合併したので、宝田石油の製油技師長に就任した。同年5月に東宮(後の大正天皇)が宝田石油に巡啓した時に石油技術を解説した。
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