浅野セメントと輸送契約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:22 UTC 版)
「安蘇馬車鉄道」の記事における「浅野セメントと輸送契約」の解説
前身の官営深川セメント製造所が葛生から原料を調達していた関係で、浅野総一郎が経営する浅野セメントが葛生(大叶)に石灰石採掘場を開設した。採掘された石灰石は安蘇馬車鉄道で葛生から越名まで輸送され、そこで川舟に積み替えて江戸川・小名木川をへて東京深川の浅野セメント工場に運ばれることになった。浅野セメントから融資された6000円で安蘇馬車鉄道が軌道を採掘場まで延長し、運賃から三分の一を差し引く形でその借金を返済し、利息の代わりに輸送賃を一割引きにする、また、一日あたり最低一万貫目を輸送するという契約を締結した。1890年(明治23年)4月1日から浅野セメントの石灰石輸送が始まると、貨物収入が三倍以上になった。肥料用の石灰の輸送は5、6月・10、11月の需要期に偏っていたが、セメント用の輸送は年間通して安定していた。安蘇馬車鉄道は馬29頭・貨車22輛・客車4輛を所有していたが肥料用石灰の需要期には、能力不足で貨物が山積みになった。貨物が少ない時期には半分の馬しか働いていなかったが飼育費はかかった。そのうえ、上流の足尾銅山で、山林乱伐と排気ガスで山に木がなくなったせいで、1890年(明治23年)8月から9月にかけて越名の洪水で二週間以上輸送が止まった。1892年(明治25年)には洪水で11日間輸送が止まった。そのせいで浅野セメントと損害賠償の民事訴訟になった。平時でも一日に9000貫目程度が安蘇馬車鉄道の輸送力の限界だったのに、1892年(明治25年)頃から七輪窯による近代的焼成法が採用されて肥料用石灰の生産も増加した。そこで岩下善七郎たちは、小規模だが蒸気機関車を用いていた伊予鉄道を視察して、馬を機関車に変えることを提案し、1892年(明治25年)9月16日の臨時株主総会で決定された。だが既に浅野セメントは安蘇馬車鉄道や川船に見切りをつけていた。江戸時代から葛生と競合していた石灰産地の青梅から、青梅鉄道によって石灰石を調達する準備を1891年から進めていた。
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