浅草オペラの「台風の目」
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「古海卓二」の記事における「浅草オペラの「台風の目」」の解説
1917年(大正6年)、舞踏家・石井漠の「アサヒ歌劇団」に入団、「獏与太平」名でオペラ台本を書く。当時同劇団には新国劇から転向した戸山英二郎(のちの藤原義江)がいた。1918年(大正7年)4月、西本政春、河合澄子、小沢美羅二(のちの映画俳優山本礼三郎)らと「日本バンドマン一座」(「バンドマン一行」とも)を結成、翻案と創作オペラを展開する。浅草の「カフェ・パウリスタ」に集う大杉栄、近藤憲二、堺利彦、辻潤、高田保らと親交を結ぶ。1919年上演の『トスキナア』(『トスキナ』とも)はかつての師・唖蝉坊の楽曲『吁! 金の世や』をフィーチャーしたアナキスム歌劇であった。「清湖」名でつくった『トスキナの歌』はインテリ高等遊民の愛唱歌となった。浅草の観音劇場に出演し、沈鐘のユッケルマンを演じる際に、「高倉 健二郎」を名乗った。 1920年(大正9年)5月の松竹資本による伊庭孝、岸田辰彌、高田雅夫、高田せい子、戸山英二郎らの「新星歌舞劇団」に参加、同年、26歳のときに同劇団の女優・紅澤葉子と結婚する。同年8月に同劇団の幹部を根岸興行部の根岸吉之助がヘッドハント、「根岸大歌劇団」を結成すると翌年、同劇団に台本作家として入団する。「バンドマン一行」「常磐楽劇団」「東京オペラカムパニー」では、舞台監督も手がけている。「ミナミ歌劇団」にも在籍した。 紅沢が横浜山下町(現在の同市中区元町一丁目)の映画会社大正活動映画の撮影所に入社、原作・脚本谷崎潤一郎、監督トーマス・栗原による設立第1作『アマチュア倶楽部』に出演するころには、本牧に居を構えた。同社の撮影所には20歳前後の俳優たちが入社したばかりで、のちの映画監督内田吐夢や二川文太郎、井上金太郎、横田豊秋、また竹村信夫、高橋英一(のちの岡田時彦)、江川宇禮雄、鈴木すみ子、渡邊篤らが「獏与太平」の家に集った。 1921年(大正10年)、大正活映の原島本太郎プロデュースのもと新宗教大本の出口王仁三郎の検挙に取材した『大本教・伏魔殿』で映画監督に転向、浅草「駒形劇場」で公開してヒットとなる。同年9月に大正活映が製作を休止し撮影所を閉鎖すると、「獏与太平」は、紅沢や内田、二川、井上、渡辺、江川らの俳優陣を引き連れて、同時期に設立された京都の「牧野教育映画製作所」に合流する。このとき獏与太平こと古海卓二27歳であった。
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