浅草オペラの「台風の目」とは? わかりやすく解説

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浅草オペラの「台風の目」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 08:32 UTC 版)

古海卓二」の記事における「浅草オペラの「台風の目」」の解説

1917年大正6年)、舞踏家石井漠の「アサヒ歌劇団」に入団、「獏与太平」名でオペラ台本を書く。当時劇団には新国劇から転向した戸山英二郎(のちの藤原義江)がいた。1918年大正7年4月西本政春、河合澄子小沢美羅二(のちの映画俳優山本礼三郎)らと「日本バンドマン一座」(「バンドマン一行」とも)を結成翻案創作オペラ展開する浅草の「カフェ・パウリスタ」に集う大杉栄近藤憲二堺利彦辻潤高田保らと親交を結ぶ。1919年上演の『トスキナア』(『トスキナ』とも)はかつての師・唖蝉坊の楽曲『吁! 金の世や』をフィーチャーしたアナキスム歌劇であった。「清湖」名でつくった『トスキナの歌』はインテリ高等遊民愛唱歌となった浅草観音劇場出演し沈鐘のユッケルマンを演じる際に、「高倉 健二郎」を名乗った1920年大正9年5月松竹資本による伊庭孝岸田辰彌高田雅夫高田せい子戸山英二郎らの「新星歌舞劇団」に参加同年26歳のときに同劇団女優紅澤葉子結婚する同年8月に同劇団幹部根岸興行部根岸吉之助ヘッドハント、「根岸大歌劇団」を結成する翌年、同劇団台本作家として入団する。「バンドマン一行」「常磐楽劇団」「東京オペラカムパニー」では、舞台監督も手がけている。「ミナミ歌劇団」にも在籍した紅沢横浜山下町現在の市中区元町一丁目)の映画会社大正活動映画撮影所入社原作・脚本谷崎潤一郎監督トーマス・栗原による設立第1作アマチュア倶楽部』に出演するころには、本牧に居を構えた同社撮影所には20歳前後俳優たちが入社したばかりで、のちの映画監督内田吐夢二川文太郎井上金太郎横田豊秋、また竹村信夫高橋英一(のちの岡田時彦)、江川宇禮雄鈴木すみ子渡邊篤らが「獏与太平」の家に集った1921年大正10年)、大正活映原島本太プロデュースのもと新宗教大本出口王仁三郎検挙取材した大本教伏魔殿』で映画監督に転向浅草駒形劇場」で公開してヒットとなる。同年9月大正活映が製作を休止し撮影所閉鎖すると、「獏与太平」は、紅沢内田二川井上渡辺江川らの俳優陣引き連れて同時期に設立され京都の「牧野教育映画製作所」に合流する。このとき獏与太平こと古海卓二27歳であった

※この「浅草オペラの「台風の目」」の解説は、「古海卓二」の解説の一部です。
「浅草オペラの「台風の目」」を含む「古海卓二」の記事については、「古海卓二」の概要を参照ください。

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