流派の名称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 02:46 UTC 版)
土佐長谷川流、長谷川英信流、無双直伝流、無雙神傳流等さまざまな流派名が名乗られていた。しかし近年[いつ?]、信州で見つかった英信の弟子であった荒井清哲が1668年に発行した伝書に無双直伝英信流の名が見られることから、すでに古くからこの流名であったことが確認されている。江戸時代、江戸で道場を開いていた荒井清哲に土佐藩士・林六太夫守政が学んだことで、土佐藩内へ伝承され、のち藩主より庇護され藩校で居合が教授されると同時に、他国への流出を防ぐために「御留流(おとめりゅう)」と呼ばれ藩外の者へ教える事を禁じられた。そのため藩校で秘匿して教授されることになり、城下に道場を建設することが出来なかった。かつては全国に幾つかの分派があったと思われるが、結果として他国ではこれらの伝承が途絶え、現在では土佐藩校に伝わったもののみ残り、そこから大正時代以降、全国へ広まることになった為、別名土佐居合と呼ばれる。この藩校で教授された居合は教授者によって若干の相違があり、大江正路はこれらの差違を分類して谷村派、下村派と呼んだ。現在では谷村派は無双直伝英信流、下村派は無双神伝英信流と呼ばれている。 居合のみの流派と思われがちだがこれは現在の居合の系統が広まったことによるものである。江戸時代、初代長谷川英信から2代荒井清哲の頃には和術(捕手術、小具足、組討など)を表芸とし、剣術、小太刀術、棒術、さらには槍術や薙刀術も伝える総合武術として、数多くの弟子に教伝されていた。その後、第3代林六太夫守政によって土佐に伝えられた系統からは居合が中心となっていった。現在の居合の正座の技は林が別に学んだ大森流から取り入れられたもので、これに関しては、かつては正しく「大森流」と称せられていたが、現在は敢えてこの名称を使っていない。さらに長谷川英信は修行時代にそれらを使った合戦術も学び、これに付随し馬術や弓術の存在も指摘されているがこれは一説の域を出ず定かではない。戦前まで、2代荒井清哲によって信州に伝えられた系統では、無双直伝(英信)流和術を中心に棒術、居合、捕縄の技法が色濃く伝わっていたと思われる。 現代では同流異派の夢想神伝流と並び、現代居合道界の流派のひとつである。
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