流派の乱立と空手の多様化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:28 UTC 版)
このように、空手道の全国化・組織化は着実に進んでいった。しかし、その一方で、もともと流派、会派などが存在しなかったと言われていた空手道界であったが、大日本武徳会を機に流派、会派など増え始めていった。1948年(昭和23年)、東京では船越義珍の門弟たちによって松濤館流最大会派である日本空手協会が結成され、1957年(昭和32年)4月10日、日本空手協会を社団法人として文部省が認可した。しかし1958年(昭和33年)には早くも空手道の試合化を否定する廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活させ、独立していった。分裂、独立については、ほかの流派も事情は似たり寄ったりであった。遠山寛賢やその高弟らによって設立された錬武会のように、無流派主義を標榜する空手家や連盟もいたが、多数にはなり得なかった。 また、全空連の試合規則、いわゆる「寸止め(極め)」ルールに対する不満などから、大山倍達の極真会館に代表されるような、フルコンタクト空手という、直接打撃制スタイル(中には顔面攻撃を認める会派もある)を採用する団体もあらわれ、一大勢力を形成するようになった。しかし、大山倍達が存命中は一枚岩と言われていた極真会館もまた、大山の死後、極真を名乗る複数の団体に分裂し、独自会派を立ち上げる者が多数出現することになる。そして、極真会館出身の大道塾空道に代表されるような、打撃技に特化された現在の空手へのアンチ・テーゼとして、空手道に関節技や投げ技を取り入れて、かつての空手がそうであった、総合武道の姿へと復元を目指す会派などもあらわれた。
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