洋学指向の儒者とは? わかりやすく解説

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洋学指向の儒者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 04:55 UTC 版)

古賀謹一郎」の記事における「洋学指向の儒者」の解説

文化13年1816年11月江戸昌平黌官舎にて、父・儒者古賀侗庵と母・鈴木との間に生まれ、謹一郎名付けられる祖父寛政の三博士である儒者古賀精里輩出した儒者家系生まれたことから、幼い頃から漢籍経典精通する天保7年1836年大番役、同12年1841年書院番として江戸幕府出仕し家塾久敬舎を父より引き継ぐ弘化3年1846年31歳昌平黌昌平坂学問所)の儒者見習となる。翌年儒者となり15扶持。 ところが儒学者ありながら洋学必要性いち早く感じ漢訳蘭書による独学にて、西洋事情習得するこの頃米国へ漂流者から欧米事情取材した談』を著す(書写本にて流布)。なお、この時期昌平坂学問所教官としての同僚佐藤一斎林復斎安積艮斎らがおり、また昌平黌および家塾久敬舎で教えた儒学上の門人として阪谷朗廬重野安繹、原伍軒(市之進)、大野右仲秋月悌次郎河井継之助白洲退蔵平田東助らがいる。 嘉永6年1853年)、ロシアから派遣されプチャーチン艦隊来航際し応接掛となり、目付筒井政憲川路聖謨随行して長崎ロシア使節との交渉を行う。翌年ロシア再来日の際も、伊豆下田での交渉行い日露和親条約の締結至った従前からの洋学指向加えロシアとの交渉でさらに西洋事情通じ日本学問状況危機感抱いた一郎は、この頃たびたび老中阿部正弘に対して建白書提出し洋学所設立外国領事館設置沿海測量許可などの開明策を求めた。これにより、阿部目にとまることとなる。

※この「洋学指向の儒者」の解説は、「古賀謹一郎」の解説の一部です。
「洋学指向の儒者」を含む「古賀謹一郎」の記事については、「古賀謹一郎」の概要を参照ください。

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