沼田ダム計画へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 08:31 UTC 版)
一方利根川水系を巡る河川開発は、次第に治水中心から利水併用へと開発目的が変わって行きつつあった。戦後の急激な経済発展と首都圏人口の爆発的増加によって上水道・工業用水道の水源不足による慢性的な水不足に陥ることが多々あった。更に打ち続く電力不足の解消も大きな課題となっており、新規電源開発も急を要する事態となっていた。こうした中で利根川流域の関東地方の自治体は、利根川の有効活用を求めるようになった。「岩本ダム」自体は治水専用であったことから、東京都・埼玉県・千葉県・茨城県・栃木県・群馬県の一都五県の知事・県議会は治水の要である「岩本ダム」と、当時尾瀬で計画されていた尾瀬原ダム計画(只見川)を連携して活用し、首都圏発展に寄与させるように主張。山崎猛を委員長とする「利根川総合開発議員連盟」とも連携して1953年に「一都五県利根川治水促進大会」を挙行し、岩本・尾瀬原両ダムの建設即時遂行を訴えた。 こうした声を受け政府は利根川水系の総合開発の改訂に迫られ、シンクタンクである産業計画会議に利根川総合開発計画について検討を依頼した。この産業計画会議の議長は戦前福澤桃介と共に日本の電力事業をリードし、「電力の鬼」とあだ名された松永安左エ門であった。この産業計画会議にて利根川総合開発の根本事業として「岩本ダム」がそ上に乗り、ダムの規模を大幅に増強して首都圏の水需要・電力需要を賄おうと考えたのである。当時赤城山麓と榛名山麓において 14,000 ha にも及ぶ大開田計画が立案されていたこともあって、新規の水資源開発が地元・群馬県でも叫ばれていた。
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