河原院の来歴の述懐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 02:12 UTC 版)
僧が、老人に、塩竈の浦を都に移した由来を尋ねる。すると、老人は、融の大臣が難波から海水を都まで持ってこさせて塩竈の浦を模した池を作り、御遊を楽しんだことを語るが、その後は受け継ぐ人もおらず、荒れ果てている有様を嘆く。 ワキ「塩竈の浦を都のうちに移されたる謂(い)はれおん物語り候へシテ「嵯峨の天皇の御宇(ぎょう)に、融の大臣陸奥の千賀の塩竈の眺望を聞し召し及ばせたまひ、この所に塩竈を移し、あの難波(なにわ)の御津(みつ)の浦よりも、日ごとに潮(うしお)を汲ませ、ここにて塩を焼かせつつ、一生御遊(ぎょいう)の便りとしたまふ、しかれどもそののちは相続して翫(もてあそ)ぶ人もなければ、浦はそのまま干潮(ひしお)となつて 〽池辺(ちへん)に淀む溜水(たまりみず)は、雨の残りの古き江に、落葉散り浮く松蔭の、月だに住(す)まで秋風の、音(おと)のみ残るばかりなり、されば歌にも、君まさで、煙絶えにし塩竈の、うら淋(さみ)しくも見えわたるかなと、貫之(つらゆき)も詠(なが)めて候地謡〽げにや眺むれば、月のみ満てる塩竈の、うら淋しくも荒れ果つる、後(あと)の世までも塩染(じ)みて、老いの波も返るやらん、あら昔恋しや地謡〽恋しや恋しやと、慕へども嘆けども、かひも渚の浦千鳥、音(ね)をのみ泣くばかりなり、音をのみ泣くばかりなり [僧]塩竈の浦を都の中にお移しになった由来をお話しください。[老人]嵯峨天皇の御代に、融の大臣が陸奥の千賀の塩竈の眺望のことをお聞き及びになり、この場所(都)に塩竈の景色を移そうとして、あの難波津の浦から、毎日海の水を汲んでこさせ、ここで塩を焼かせ、生涯、御遊の楽しみの種となさいました。しかし大臣が亡くなった後はこれを相続して楽しむ人もいなかったので、浦はそのまま干潟となって、池辺に淀んで溜まった水は、雨水がたまったものにすぎない。昔の入り江には、落ち葉が散り浮かび、松陰を洩れる月でさえきれいに映ることがない。秋風の音だけが残るばかりだ。だから和歌でも「あなた(融の大臣)がいらっしゃらなくなって、塩を焼く煙が絶えた塩竈が、物寂しく見渡されることだ」と紀貫之も詠んだのです。――本当に、見渡すと、月の光だけが満ちている塩竈は、物寂しく荒れ果ててしまい、後世の今も塩が染み付いていて、私の身にも老いの波が寄せ返すようだ、ああ昔が恋しい。――恋しい恋しいと、慕っても嘆いても甲斐がない。渚の浦千鳥のように、声を上げて泣くばかりだ。
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