沈船防波堤時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 18:42 UTC 版)
終戦後、国としての方針は食料増産であり、その一貫として漁獲高を上げることにも力が注がれることとなる。 当時の小名浜港は防波堤がなかったため、小規模な防波堤を作ることが急務とされた。しかし、終戦後はコンクリートや石材などの資材が不足しており、廃艦を沈めればそれだけで数100m近くの防波堤ができるため、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの強い方針もあり、日本各地で、軍艦防波堤(響灘沈艦護岸)を初めとした、旧大日本帝国海軍の艦艇を利用した防波堤工事が実施されることとなる。 沢風は、1948年(昭和23年)に浦賀船渠にて解体・改装される。マストや艦橋など船体上部構造をすべて取り除かれ、海に浮かぶ、錨を下ろすことができるなど必要最低限の状態となり、その後栗橋 に曳航されながら、小名浜港へ到着する。 その後、同年の4月2日に沈船作業が実施された。作業内容は以下である。 05:30 - 作業員18名での土砂流入による沈設作業が開始 13:15 - 船体内部に注水作業を開始。 14:45 - 船底着座が確認されたことにより、防波堤として完成。 上記作業を経て、沢風は日本で初めて軍艦を利用した沈船防波堤として完成し、28年間の駆逐艦としての生涯を終えたのである。 その後、同年8月25日に、汐風も近くの一号埠頭付近に沈設された。 また、沢風と汐風の防波堤は、沈設の際から「軍艦の船底には数トンもの鉛が大量にある」とまことしやかに囁かれており、事実、駆逐艦は船体の重心を下げ、復原性を高めるために当時は鉛を大量に使用していた。 そのため、防波堤の完成時から鉛や鉄材を狙う多くの解体業者に目をつけられることとなる。 なお、沢風は当時の連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの厳命もあり、蒸気タービンを取り外さずに沈設したために金目の物が多く、鋸やハンマーをはじめプラズマ切断機(酸素切断機)などが用いられ、鉄板は剥がされ、船内の配線は引き抜かれ荒されるなどの盗掘被害を被った。 複数回に渡り、大掛かりで規模が小さいとは言えない盗掘に発展したことで船内にコンクリートが流し込まれるなどの対応がなされた。 幸いな事に、機関部などに関しては海面よりも下に埋設されていたため、盗掘者も手が出せなかったようであり、荒らされるなどの被害はなかった。
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