江戸修業とは? わかりやすく解説

江戸修業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 10:06 UTC 版)

櫻間伴馬」の記事における「江戸修業」の解説

1856年安政3年)、21歳で、細川家家老八代城主・松井佐渡守伴われ修業のため江戸上る出立の際には親類総出見送りに来、伴馬も「修業成就しなければ再び故郷の土はふまない」と覚悟して旅立ちであった。この時は1年熊本戻ったが、父・右陣がコレラ死去した1858年安政5年)、藩主細川斉護勧め再度出府以後1861年文久元年)まで滞在した江戸で伴馬が師事したのは、73代金春流宗家金春元照の弟子で、金春座地謡方であった中村平蔵であった平蔵についてはその来歴詳らかでないが、後に宝生九郎が「口は悪かつたが芸はよかつた」と語っているように、かなりの腕を持つ役者だったらしい。後に伴馬の弟・金記も、平蔵師事している。 平蔵稽古厳しいもので、曲中に一句でも満足に謡えない部分があれば「十日二十日一行も先へ進むことが出来ない事などは何時もの事」であり、「あまりの厳しさに情なくもあり、何うして謡つたらいいのか途方に暮れてポロポロ涙をこぼす事が幾度あつたか知れません」と、後年伴馬は追想している。「是界」の稽古突き飛ばされ時にはぶつかった壁に中指めり込んだという。後に伴馬はその稽古厳しさ繰り返し息子弓川語ったが、一応平蔵細川家への気兼ねから、多少手加減をしていたらしい。 伴馬は細川藩邸から平蔵元に通っていたが、江戸滞在中に起こった桜田門外の変の際には、水戸側の浪士藩邸飛び込んでくる、という出来事遭遇している。緊迫する情勢の中、1861年文久元年)に、伴馬は細川護久従い熊本帰る

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江戸修業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:07 UTC 版)

友枝三郎」の記事における「江戸修業」の解説

1855年安政2年)春、細川家側用人松井典礼従い修業のため13歳江戸上った翌年冬にはいったん帰郷するものの、以後1857年春〜1859年春、1861年1868年3度渡り出府喜多流12世宗家・喜多六平太能静の内弟子となって師事する。なお同じ頃、同郷新座大夫であった櫻間伴馬も、江戸上って修業している。 三郎江戸滞在中はまさに幕末の動乱であったが、そのために他国からの門人次々と江戸去り宗家からの稽古を受ける機会増えるという幸運もあった。生活は苦しく、冬は寒さ眠れないために、一晩中あんかを抱いて謡を練習していた。またこの頃他流である宝生流の謡も3年ほど学んだという。 1868年明治元年)、江戸で修業終えて熊本帰国することとなる。この際同門親友だった津軽出身の紀淑真(喜真)が見送り買って出たが、別れを惜しむうちになし崩しに同行し最終的に大阪まで珍道中繰り広げたという逸話がある。淑真とはのち、ともに14世六平太助けて喜多流復興尽力することとなる。

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