江戸修業
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1856年(安政3年)、21歳で、細川家家老の八代城主・松井佐渡守に伴われ、修業のため江戸に上る。出立の際には親類が総出で見送りに来、伴馬も「修業が成就しなければ再び故郷の土はふまない」と覚悟しての旅立ちであった。この時は1年で熊本に戻ったが、父・右陣がコレラで死去した1858年(安政5年)、藩主・細川斉護の勧めで再度出府、以後1861年(文久元年)まで滞在した。 江戸で伴馬が師事したのは、73代金春流宗家・金春元照の弟子で、金春座の地謡方であった中村平蔵であった。平蔵についてはその来歴が詳らかでないが、後に宝生九郎が「口は悪かつたが芸はよかつた」と語っているように、かなりの腕を持つ役者だったらしい。後に伴馬の弟・金記も、平蔵に師事している。 平蔵の稽古は厳しいもので、曲中に一句でも満足に謡えない部分があれば「十日や二十日一行も先へ進むことが出来ない事などは何時もの事」であり、「あまりの厳しさに情なくもあり、何うして謡つたらいいのか途方に暮れてポロポロ涙をこぼす事が幾度あつたか知れません」と、後年伴馬は追想している。「是界」の稽古で突き飛ばされた時には、ぶつかった壁に中指がめり込んだという。後に伴馬はその稽古の厳しさを繰り返し息子・弓川に語ったが、一応平蔵も細川家への気兼ねから、多少は手加減をしていたらしい。 伴馬は細川藩邸から平蔵の元に通っていたが、江戸滞在中に起こった桜田門外の変の際には、水戸側の浪士が藩邸に飛び込んでくる、という出来事に遭遇している。緊迫する情勢の中、1861年(文久元年)に、伴馬は細川護久に従い熊本に帰る。
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江戸修業
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1855年(安政2年)春、細川家の側用人・松井典礼に従い、修業のため13歳で江戸に上った。翌年冬にはいったん帰郷するものの、以後1857年春〜1859年春、1861年〜1868年と3度に渡り出府、喜多流12世宗家・喜多六平太能静の内弟子となって師事する。なお同じ頃、同郷で新座の大夫であった櫻間伴馬も、江戸に上って修業している。 三郎の江戸滞在中はまさに幕末の動乱期であったが、そのために他国からの門人が次々と江戸を去り、宗家からの稽古を受ける機会が増えるという幸運もあった。生活は苦しく、冬は寒さで眠れないために、一晩中あんかを抱いて謡を練習していた。またこの頃、他流である宝生流の謡も3年ほど学んだという。 1868年(明治元年)、江戸での修業を終えて熊本に帰国することとなる。この際、同門の親友だった津軽出身の紀淑真(喜真)が見送りを買って出たが、別れを惜しむうちになし崩しに同行し、最終的には大阪まで珍道中を繰り広げたという逸話がある。淑真とはのち、ともに14世六平太を助けて喜多流復興に尽力することとなる。
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