江戸以外での火消
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 01:29 UTC 版)
江戸以外の大都市や各藩の城下町でも、火消は存在したが、江戸のように大規模で制度化されたものとはならなかった。例外的に加賀藩前田家の本国金沢の町では、1000石以上の藩士10名を火消役とし、火の見櫓を備えた屋敷に常時火事装束で待機させるなど、消防組織が整備されていた。町内には82箇所もの火の見梯子が設けられ、家々の屋根には水を入れる天水桶が常備されていた。風の強い日には町人に男女を問わず火の用心の巡回をさせるなど、江戸よりも進んだ防火体制がとられていた。江戸において加賀鳶が活躍した背景には、こうした加賀藩の充実した防災制度があるという。 当時(五重塔を除けば)日本最大の建築物であった京都の方広寺大仏殿は、落雷により寛政10年(1798年)に焼失したが、その過程は「洛東大仏殿出火図(国際日本文化研究センター所蔵)」に絵図で記録されており、その絵図では火消し達が懸命に消火活動にあたる姿が描かれている。 明治維新後、東京(江戸)では町火消を消防組に改編し制度化していたが、全国的に統一された規則は作られなかった。そのため、東京以外での消防組織は、各市町村の条例により、あるいは私的に設けられていた。この状態は、明治27年(1894年)に消防組規則が制定され、警察署長が監督する官設消防組が誕生するまで続いた。
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