汐見と千枝子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:50 UTC 版)
汐見の藤木兄妹への態度は、舟の上で藤木を抱きしめて「眩暈のような恍惚感」を覚えた一方、千枝子を抱いた際には「一種の精神的な死の観念からの、漠然とした逃避のようなもの」を持つ結果となったように、明らかな差異があることが多く指摘されているが、その理由は諸説あり、定説を見てはいない。 首藤基澄は「千枝子は汐見の夢みた普遍的なものに焦点をあてて不満であり、不安であった。しかし、汐見にとってはそれが仕事だったのである。現実のものを普遍的なものにまで高めることが、日本文学にはもっとも緊要なことであった。(中略)ありのままに安住せず、普遍的なものを獲得する正当な努力をしていたのだが、千枝子にはそれが理解できなかったのである」としている。 小林翔子は従来の男性論者による考察を、汐見(男性)側の精神的完成に主眼を置いて千枝子(女性)側の現実を無視していると批判し、千枝子は汐見から「久遠の女性」として祀り上げられることを拒み、ノートの受け取りを拒否することによって汐見の死後も、彼に操作されることから逃れたとしている。鳥居真知子も同様に、千枝子は「彼の主観的な〈生〉の意味づけを担っていくことを拒んだ」とし、その理由として千枝子は、汐見が死者である藤木の影響の下に生きており、それが自身と汐見とを引き離した原因であることを見抜いていたからであるとしている。柴門ふみは、千枝子は汐見が理想を投影する存在として選んだ存在であったとし、「だから、汐見とは異なる宗教見解を持つ千枝子を、汐見は拒絶するのだ。思い通りの人形でないとわかったとたんに」と述べている。 西田一豊は汐見が自らを置いた「英雄の孤独」が「神」と対比するものとして描かれていることに着目し、その理由を千枝子が「違った世界観」(キリスト教)を持った存在であるからであるとしている。そして汐見が千枝子にのみキリスト教会への批判をぶつけていたことと併せて、彼は「神」と対置される世界観を提示することで千枝子の価値観を揺らがせ、自らの世界観へ従属させようとしていた、と考察している。 野村智之は、理想型(男性)と現実型(女性)の二項対立という見方は単純すぎると批判し、「ある意味自己中心的な汐見の態度が、千枝子に対する場合にも影響したと考えられるが、斯様にして自己の枠組を相手に押し付けようとしているのは、千枝子の側にもあると言うことができる」と述べている。その理由として千枝子の「本当の愛というものは、神の愛を通してしかないのよ」「神の愛は変らないけれど、人間の愛には終りがあるのよ」といった言葉からわかる思考の硬直性を挙げ、彼女もまた逃避した信仰の世界で作り上げた理想の他者像を汐見に拒否され、現実の汐見から離れていった、としている。そして『草の花』を、「互いに理想の世界のみでしか生きようとする意思を持てなかった人間同士が齎してしまった悲劇であると言える」と総括している。
※この「汐見と千枝子」の解説は、「草の花」の解説の一部です。
「汐見と千枝子」を含む「草の花」の記事については、「草の花」の概要を参照ください。
- 汐見と千枝子のページへのリンク