汐見と藤木
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:50 UTC 版)
先行研究では、汐見と藤木の関係について、同性愛か友情か、ということが常に議論されてきた。小林翔子は日本の前近代に於ける衆道の文化が、明治以降の旧制学校内に「硬派」な愛という形で継承されたと述べ、藤木への汐見の愛も硬派的なものであり「同性愛」ではないとしている。 首藤基澄は1989年(平成元年)の論考で、汐見が「純粋培養」した愛を藤木が拒否したのは、「汐見があえて語らなかった愛の肉体的な側面を察知したからではなかったか」「汐見の愛への投企が精神的なものにとどまらないことを察知した時、それを拒否しなければ、間違いなくホモセクシュアルの世界に入りこむことになる」とし、藤木の拒否によって汐見の愛の純粋性は保たれたとしている。一方、古川誠は2021年(令和3年)の論考で、この首藤の論は「同性愛=異常=疑似恋愛」という図式に基づくものであり、現代では流石にこうした同性愛蔑視のような言説はなくなったと述べている。また、藤木への愛を硬派なものとする小林の論を否定し、汐見は「友情」と「愛」に区別を設けておらず、藤木への感情は「プラトニックな友愛」とでも呼べる愛の形であったと結論付けている。 細川正義は、汐見には愛することや愛されることの責任を感じている藤木とは対照的に「エゴイズムの問題に対する躊躇も、或は愛と孤独の相入れない断絶への問題意識も示されていない」「藤木が何故汐見の愛を拒絶しているのかも思いやれず、藤木の僅かの振舞の中に自分勝手ともいえる解釈をつけて、ささやかな幸福感を求めようとしているにすぎないのである」としている。 野村智之は汐見のプラトニズムに裏打ちされた汐見の愛について「理想的な世界でのイデア的な要素が細部に於いて定義付けがされればされるほどに、それと相反する現実としての他者と接することが困難になるという悪循環」を指摘し、汐見はその葛藤を現実世界で解決するのではなく、「より理想化を強めることで乗り越えようとしてしまっている」としている。
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