氾濫と洪水の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 16:26 UTC 版)
上流では入植者による両岸の原生林の伐採以来、融雪期に毎年川が氾濫するようになった。なお、「アツベツ」のアイヌ語源の「新しい川」説では、洪水は入植以前のアイヌ時代からあり、毎年流路が変わるので「新しい川」と呼ばれていたとされている。厚別川はもともと大きく蛇行しており、氾濫すると流出した木や家屋が川岸の雑木に引っかかって川を堰き止め、何度も流路が変わった。 下流の低湿地帯には厚別川や豊平川、石狩川など多くの河川が集中し、融雪期のみならず夏季の多雨でも容易に氾濫した。石狩川から氾濫した水が厚別川へ逆流することも少なくなかった。 1913年(大正2年)に起きた厚別川の決壊では、山本地区や川下地区の泥炭が浮き上がって流れ、洪水が引くと泥炭でせき止められた沼ができ、以来バケ沼と呼ばれるようになった。 1926年(大正15年)の集中豪雨ではいたるところで河川が氾濫し、下流の大谷地原野は全域が水没し、元の川筋がわからなくなるほど川の流れが変わってしまった。 1950年(昭和25年)7月31日から8月1日にかけての豪雨による大洪水では、人の肩ほどまで浸水があり、北郷から東米里まで一帯が水没した。橋が流され、家屋が流出し、国道12号も水に浸かり、多くの住民が筏で避難した。米里地区は10日間にわたって水没し、当時の白石村では村の予算の3分の1を超す被害が出た。これを期に流域住民が厚別川改修の期成会を結成し、国や北海道への陳情活動を行うが、実現までは長い年月が費やされた。この後も、昭和36年の洪水では鉄道が不通になった。 河川改修を行おうにも、両岸には雑木や竹が繁茂して川辺に近づくことすら困難で、北海道庁では測量もままならなかった。そのため、期成会と流域住民は5ヶ月かけて両岸の伐採を行い、測量にこぎつけた。河道の整備や築堤が完成するのは25年後の1976年(昭和51年)のことである。
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