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永見俊徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/10 10:12 UTC 版)

永見 俊徳
生誕 1888年2月19日
日本 東京府
死没 (1971-03-02) 1971年3月2日(83歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1909 - 1943
最終階級 陸軍中将
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永見 俊徳(ながみ としのり、1888年2月19日 - 1971年3月2日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

永見松太郎陸軍大尉の長男として東京で生まれる。小田原中学仙台陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1909年(明治42年)5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第27連隊付となる。1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を優等で卒業。

1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、参謀本部付仰付(南京駐在)を経て、1925年(大正14年)3月、歩兵少佐に昇進。1926年(大正15年)5月、参謀本部員となり、馮玉祥顧問、参謀本部付仰付(漢口駐在)を歴任し、1928年(昭和3年)8月、歩兵中佐に進級。

1929年(昭和4年)8月、歩兵第59連隊付となり、陸大専攻学生、近衛歩兵第3連隊付、陸軍歩兵学校教官を歴任。1932年(昭和7年)2月、上海派遣軍参謀に発令され第一次上海事変に出征。同年12月、歩兵大佐に昇進し歩兵第25連隊長に就任。

1935年(昭和10年)3月、関東軍司令部付(満州国軍事顧問)となり、支那駐屯軍参謀長、豊予要塞司令官を歴任。1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級し西部防衛参謀長に発令された。1938年(昭和13年)7月、第27歩兵団長に転じ日中戦争に出征。漢口作戦などに参戦。1939年(昭和14年)8月、留守第11師団長に異動し帰国。同年10月、陸軍中将に進んだ。1940年(昭和15年)8月、第55師団長に親補され、同年12月、予備役に編入となった。

1941年(昭和16年)10月に召集され、留守第55師団長に就任。1943年(昭和18年)6月、召集解除となった。同年12月、華北行政学院副院長に就任した。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

栄典

脚注

  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」106頁。
  2. ^ 官報』第7998号「叙任及辞令」1910年2月23日。
  3. ^ 『官報』第216号「叙任及辞令」1913年4月22日。
  4. ^ 『官報』第1738号「叙任及辞令」1918年5月21日。
  5. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」1923年8月1日。
  6. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  7. ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。



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