水田派から田中派へ
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金脈問題の追及を受けて1974年12月9日、田中内閣が総辞職。しかし田中角栄の政治力はいささかも衰えず、1975年6月、江崎は同じ水田派の田村元と共に田中派に入る。 ロッキード選挙と言われた1976年12月の総選挙では、田中派に属していたことが影響し、三木派の海部俊樹に初めてトップ当選の座を明け渡した。二人の得票に5万票以上の差ができたものの、同月の党役員改選で江崎は自民党総務会長に抜擢された。1977年、自民党政務調査会長に就任。 1978年、公選により自民党愛知県連会長に当選。同年12月に成立した第1次大平内閣で通商産業大臣を務めた。 1985年12月に成立した第2次中曽根内閣第2次改造内閣では、総務庁長官と対外経済問題・民間活力導入の特命事項担当大臣を務めた。 1987年7月4日、竹下登と金丸信は田中派会長の二階堂と袂を分かち、経世会を結成。江崎は田中派(二階堂側)に残ったが、江崎の片腕だった吉川博参議院議員、大木浩参議院議員、今枝敬雄衆議院議員(旧愛知1区)らは竹下派に参加した。 1989年6月8日、二階堂は二階堂グループを離脱。これに伴い同グループの会長に就任。 同年8月8日に行われた自民党総裁選挙で、最大派閥の竹下派は自派候補の擁立を見送り、河本派の海部俊樹を担ぐ道を選んだ。総裁選の候補者は海部のほか、宮澤派の支援を受けた二階堂グループの林義郎、安倍派の石原慎太郎の3人。県下の国会議員は一斉に海部の推薦人となったが、江崎は林の推薦に回らざるをえず、吉川らとの溝は一段と深まった。 同年9月21日、一宮市長の森鉐太郎が在職中に死去。これに伴う一宮市長選で江崎は市助役の福島義信を擁立するが、海部首相の推す神田真秋に敗れ、地元の愛知3区内でも気まずい雰囲気が生まれた。
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