正義隊クーデター、自刃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:15 UTC 版)
「松前勘解由」の記事における「正義隊クーデター、自刃」の解説
慶応4年(1868年)閏4月、家老に再登用される。大政奉還後の松前藩は、箱館府に守備兵を送り、敦千代を藩主名代として上洛させ、秋田の奥羽鎮撫副総督・澤為量に軍資金を提供と新政府に従う姿勢を見せる一方で、奥羽越列藩同盟にも家老・下国弾正を派遣する日和見政策を取ったが、鈴木織太郎・下国東七郎ら少壮藩士を中心とする尊王派は不満を高め、正義(しょうぎ)隊を結成した。 正義隊は密かに箱館府知事・清水谷公考と接触し協力を取り付け、7月28日(1868年9月14日)にクーデターを決行。正義隊は家老・下国安芸を強要して藩主・徳広に謁見し、勘解由ら佐幕派の一掃と勤王への転向を建白、病気のため判断力が低下していた徳広はこれを採り上げる。建白書が採用されたことを知った勘解由は急遽登城しようとするが果たせず、集まった1千名もの藩士と共に藩の武器弾薬庫である威遠館から武器を奪い、松前城の東にある法華寺から城中への砲撃を企図するが、君臣の分を弁えよと説得され思いとどまる。翌29日に家老を罷免。8月1日に正義隊が佐幕派重臣を襲撃、勘解由も屋敷を襲撃されるが撃退(弟・蠣崎監三は同日誅殺されている)。8月2日に自宅禁固となり、8月3日切腹。死亡時の年齢は40歳を過ぎたあたりとみられる。その後も正義隊による粛清は続き、松前藩は混乱の中、2か月後に箱館戦争を迎えることとなる。 墓は松前氏の菩提寺である、北海道松前町の法幢寺(ほうどうじ)にある。
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