権利活動家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 07:21 UTC 版)
「ハリエット・タブマン」の記事における「権利活動家として」の解説
南北戦争が終わり、南部での奴隷解放の後も、黒人と女性の権利のために活動家として講演旅行に出かけるなど活躍した。伝記筆者セーラ・ブラッドフォードの協力を得て、1869年に自叙伝『ハリエット・タブマンの生涯の情景』を出版した。これはタブマンの経済的困難を著しく改善したが、先述のように歴史資料としては誇張や美化も多いとされる。同年、黒人の退役軍人ネルソン・デービスと再婚した。 ジョン・ブラウンはタブマンを「タブマン将軍」と呼び、「この大陸でもっとも勇敢な人物」と評した。フレデリック・ダグラスもまた、「ジョン・ブラウンを除けば、奴隷の逃亡を助けるため、タブマン以上に危険で困難な仕事をした人物を挙げることは出来ない」と述べている。 高齢になると、ニューヨーク州オーバーンにかねて買っておいた家に拠点を構えた。かつて南部から脱出に成功した両親が1859年頃に住んだ家である。合衆国陸軍から少額の恩給が受られるようになり、1908年、この街に施設を建てて身寄りのない元奴隷を住まわせ、その家で働きながら戦死した黒人兵の遺族への支援を続けた。最晩年には自らもそこに身を寄せて、1913年に肺炎で死去。93歳であった。臨終の際には、仲間や助けられた人々、支援者が集まり「スイング・ロウ・スウィート・チャリオット」を歌ったとされる。 フレデリック・ダグラスも奴隷出身だった。(撮影:Samuel J Miller、1847年-1852年頃) 奴隷制度廃止運動家ジョン・ブラウン(伝Martin M. Lawrence撮影・部分、1859年) H・タブマン(1868年-1869年頃) H・タブマン(The New England Magazine、1895年頃) オーバーン市民が作ったH・タブマン顕彰の銘板。(1914年) 地下鉄道車掌の姿を写したH・タブマン記念像。 (Jane DeDecker制作、ミシガン州イプシランティ。2006年)
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