植原一郎説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 00:15 UTC 版)
ビストロ・ボルドー店主の父、植原一郎は兵庫県姫路市の出身で外国船の船員をしていたが、戦後は神戸の米軍将校クラブ「シルバーダラ」に勤めた。クラブに出入りする日本人女性や従業員のために冷やご飯で焼き飯を作ったが、外国人のクラブのため焼き飯と言えず、トルコのピラウに似せたとして「トルコ風ライス」と呼んだ。実際にトルコのサフランピラフに似せようとサフランを用いたり、ターメリックを試したりもしたが、カレー粉になったともいう。トンカツやスパゲティはおかずを求められて付けたという。植原は妻の故郷である長崎に移ってレストランマルゼンのシェフ松原と知り合う。松原が入院して助っ人として入ったが、経営者から相談を受けた際にトルコ風ライスを紹介し、松原が退院して復帰した後に初めてメニューに載り、長崎に広まったとする説。 2004年の「リブながさき」が有力とした三つの説の一つ。長崎外国語大学の副学長、姫野順一が2019年6月6日「秘密のケンミンSHOW」で有力な二つの説の一つとして紹介した話は本説の将校クラブのくだりに沿っているが、料理を将校に出したとしている点に相違がある。 柏井寿は植原一郎をビストロ・ボルドーの先代シェフとしているが、ビストロ・ボルドーは1987年(昭和62年)に当代の店主、植原一が自ら開業した店である。伊丹由宇は既に廃業したレストラン金子の先代マスターの話として「神戸の将校クラブ」や「ピラウ」、「レストラン丸善」に触れて「最も具体的な理由を持っている」としたが、レストラン金子は店主が1983年に店を構え、2008年1月末に閉店して25年の歴史に幕を閉じた店である。
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