森永惣吉と村岡安吉
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小城市での羊羹製造は諸説あるが、1872年(明治5年)ごろに小城市内で会席業を営んでいた森永惣吉(1845年~1910年)が大阪虎屋の手代から手ほどきを受けた小豆の煮方をヒントに、試行錯誤を重ねて羊羹製造に至ったのが最初とする説があり、小城市役所や羊羹資料館などではこの説を取って紹介している。 惣吉は従来の紅い羊羹を「桜羊羹」の名称で製造・販売するのに加え、1898年(明治31年)に白羊羹を、翌年には茶羊羹を新たに考案した。また、1894年~1895年の日清戦争では軍隊の酒保で扱う甘味品としても採用された。この時遠く大陸の前線まで送られても、他の商品の様に品質の劣化がなかったことで小城の羊羹の名声が更に高まり需要も増加。小城町内に4、5軒だった羊羹業者も徐々に増加し、1914年(大正3年)には製造戸数29戸、生産量27万斤(約162トン)、生産額51,000円を数え、同年8月に「小城羊羹製造同業組合」が結成されている。 惣吉が小城の羊羹の創業者とすれば中興の祖と呼ばれるのが村岡安吉(1884年~1962年)である。農産物問屋を営んでいた安吉は1899年(明治32年)に羊羹づくりに参入。安吉は機械化をいち早く行い生産力の増大を果たすと共に、そのころ整備され始めた鉄道に着目し、駅売りの権利を得て売り上げを大いに伸ばしたほか、佐世保の海軍工廠と久留米の陸軍18師団という陸海の九州における一大拠点の中間点という地の利を生かして軍への納入にも力を入れ更なる販路の拡大を果たした。また、販路の拡大により他の産地との差別化が必要と考え「小城羊羹」の名称を考案してもいる。なお、軍への供給はその後も続き、第2次世界大戦期には海軍御用達として「海の誉」ブランドで羊羹を製造している。戦争の後半になると戦局の悪化に伴い砂糖など物資が不足し羊羹製造社の多くが店を閉じたが、虎屋(陸軍用の「陸の誉」および海軍用の「海の勲」を製造していた)と共に軍需品として特別待遇をうけ、戦時中を通じて羊羹の製造を続けている。
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