栄達と失墜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:52 UTC 版)
「ラヴレンチー・カルトヴェリシュヴィリ」の記事における「栄達と失墜」の解説
同年12月11日から1927年6月7日まではロシア共産党ザカフカース地方委第三書記、1925年から1927年6月13日までは再度グルジア共産党中央委書記、同月から1929年まではグルジア社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長、1929年11月まではウクライナ軍管区(ロシア語版)政治部部長、同月21日から翌1930年6月5日まではウクライナ共産党中央委書記、12月13日までは同委政治局員および組織局員に就き、また6月15日から12月13日までは第二書記、7月13日から1934年1月26日までは全連邦共産党中央委員候補でもあった。 1930年11月19日から翌1931年11月9日まではザカフカース地方委第一書記、同年9月12日から11月14日まではグルジア共産党中央委第一書記を務めた。しかし、同年にモスクワで開かれたザカフカース地方委幹部会議において、地方委の次期第一書記にラヴレンチー・ベリヤを据えることを提案したヨシフ・スターリンに対し、カルトヴェリシュヴィリは「私はあの詐欺師と一緒に働くつもりはない」と言い放った(ニキータ・フルシチョフによれば、ベリヤとカルトヴェリシュヴィリは活動家時代から不仲であったという)。この発言が本でカルトヴェリシュヴィリは左遷され、同年12月から1933年3月までは連邦共産党西シベリア地方(ロシア語版)委第二書記、同月から1937年1月まで独立赤旗極東軍(ロシア語版)軍事ソビエト(ロシア語版)メンバー、同月15日まで党極東地方(ロシア語版)委第一書記に就いた。 1934年2月10日から1937年6月25日までは全連邦共産党中央委員に就き、1936年12月28日から1937年7月14日まではクリミア州委第一書記を務めた。ウクライナ共産党中央委には1918年7月12日から9月9日まで、1924年5月16日から1925年1月13日まで、1929年11月21日から1934年1月18日までの三度属し、ソビエト連邦中央執行委幹部会メンバーも務め、連邦党大会には第10回(ロシア語版)から第17回(ロシア語版)まで(第12回(ロシア語版)を除く)出席した。
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