栄転-最上家家臣としてとは? わかりやすく解説

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栄転-最上家家臣として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 03:42 UTC 版)

里見民部」の記事における「栄転-最上家家臣として」の解説

天正8年(1580年)、最上義光家臣である氏家守棟谷柏直家らの調略を受け、民部父と共に異母兄内蔵助殺害し更にはを満兼を討ち取った最上義光伊達との停戦協定の際の民部働き忠誠感激し家臣として迎え入れたいと以前から考えていたという。 戦後上山城に就き上山里見氏として村山郡権勢誇った。 同19年1591年)、義光の二男最上家親小姓として徳川家康出仕する際に随行している。天正年間主君・義光の許し得て子・里見正光職務譲っている。 慶長5年1600年)の慶長出羽合戦では、上山城守備役だった民部は掛入石中山口から上山城攻略に向かう上杉景勝部将本荘繁長上泉泰綱篠井康信・横田旨俊ら4千を約5百の兵を城から打って出て、援軍草刈志摩と共に奇襲し撃退したこの際上杉軍大将本村親盛が草刈家臣・坂弥兵衛討ち取られ椎名弥七郎などの犠牲者出した一方で最上援軍草刈志摩鉄砲により戦死するなど壮絶な戦いであったと伝わる。 一説にはこの戦では上杉軍内通していたが、父・義近が人質として山形城におり、寝返ることができず、逆に奮戦した、とある。 戦後勲功から、長崎1万7千石領した上山城には義光の五男・上野山義直が入る。 また、義光の嫡男最上義康補佐をつとめる。

※この「栄転-最上家家臣として」の解説は、「里見民部」の解説の一部です。
「栄転-最上家家臣として」を含む「里見民部」の記事については、「里見民部」の概要を参照ください。

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