柏原藩陣屋跡
名称: | 柏原藩陣屋跡 |
ふりがな: | かいばらはんじんやあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 兵庫県 |
市区町村: | 丹波市柏原町 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1971.01.06(昭和46.01.06) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S45-5-116[[柏原藩陣屋跡]かいばらはんじんやあと].txt: 柏原織田藩は、慶長3年、信長の弟[[信包]のぶかね]が封ぜられてから、一時家系が絶え、天領となったが、元禄8年、大和宇陀郡松山より、[[信休]のぶひさ]が移封され、その子孫が代々2万石を領し、明治維新まで、織田家が藩主となっていた由緒ある藩である。 藩邸は、正徳4年にはじめて造営されたが、文政元年(一説に文化13年)に焼失した。その後再建され、明治5年の学制発布により、翌年、豊岡県より払い下げられて[[崇広]すうこう]小学校の校舎となった。 現在、小学校に残る建物は、玄関・式台と、これにつづく書院上段の間・同次の間・御使者の間・同次の間と、これをとりまく入側の部分にすぎない。大正3年まで残っていた他の部分は、取りこわされるか、建て替えられた。しかし、大名陣屋として原位置に残るものは他にないので、きわめて貴重である。藩邸の長屋門は、小学校正門として用いられているが、桁行13間半、梁間2間で、造営当初のものといわれる。 柏原藩陣屋が、大名陣屋の構造としてのみならず、それが明治の小学校校舎に転用され、現在にもなお続いていることは、わが国の学制の発達を知る上でも数少ない事例である。 |
柏原陣屋
(柏原藩陣屋跡 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 23:43 UTC 版)



柏原陣屋(かいばらじんや)は、兵庫県丹波市柏原町(丹波国氷上郡)にあった陣屋。柏原藩の藩庁。国指定の史跡。
慶長3年(1598年)織田信長の弟信包が3万6千石で入り、3代続くが慶安3年(1650年)嗣子なく断絶した。以後45年の長きにわたり天領となった。元禄8年(1695年)信長の次男信雄の孫の宇陀松山藩主信休がお家騒動の咎により領地を半減され2万石で入る。移封より19年経た正徳3年(1713年)幕府より陣屋を築くことが許された。以後10代にわたり織田氏が治め、明治にいたる。
現存建物
長屋門は正徳4年(1714年)に造られた表門で内部は左側が番所、右側が馬見所と砲庫で、文政元年(1818年)御殿が焼失した時も延焼を免れた、創建時から残る唯一のものである。御殿は正徳4年、初代信休により築かれたものであったが、文政元年の火災で焼失し、文政3年(1820年)に再建されたものである。再建されたものの明治維新後に解体され、現在では再建時のおよそ5分の1が現存しているにすぎない。
なお、正確な建築年代は判明していないが、太鼓櫓は大手門にあり、番所や物見櫓の役割も果たした。明治になってから石田大蔵神社境内に移築された。
現在、陣屋跡地は丹波市立崇広小学校の敷地となっている。
周辺
- 丹波市立柏原歴史民俗資料館(隣接)
- 旧氷上郡各町村組合立高等小学校(隣接)
関連項目
外部リンク
- 柏原陣屋跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 柏原陣屋の歴史、構造、観光情報、地図、アクセスなど 攻城団
座標: 北緯35度7分43.8秒 東経135度4分55.9秒 / 北緯35.128833度 東経135.082194度
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