松平忠輝統治時代
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堀氏の改易後には、家康の六男・松平忠輝が従来の川中島藩12万石に加え、越後の新領である63万石を領する75万石の太守として封じられた。松平忠輝は慶長19年(1614年)に高田城を築城し、福嶋城を廃してこれに移った(厳密な意味ではこれ以降が高田藩である)。実際の藩政は慶長18年(1613年)までは附家老の大久保長安が統括した。この長安は武田信玄にその行政手腕を見出されて登用され、家康の下では関東代官や金山奉行として活躍した人物である。長安は佐渡金山をも取り仕切っていた。しかし忠輝は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で遅参した上、忠輝軍が大坂に向けて行軍中の近江守山で徳川秀忠直属の旗本2名を斬殺するという事件を起こした。加えて大坂夏の陣後、朝廷に戦勝を奏上すべく家康と共に参内することになっていたにもかかわらず、忠輝は桂川で舟遊びをしてこれに加わることができなかった。これらが原因と言われているが、家康死後の元和2年(1616年)7月6日、将軍秀忠の命により忠輝は改易および伊勢朝熊に配流となった。ここに至る混乱の原因について、忠輝は父・家康や異母兄・徳川秀忠に疎まれたことがあったため反発していた、秀忠が忠輝の存在(忠輝の妻・五郎八姫は伊達政宗の娘で、この縁組を取り持ったのは大久保長安であり、彼らが結託すれば大勢力になる)を恐れたための処置だった、徳川忠長や松平忠直と同様に近しい親族は幕藩体制確立の障害となるため排除された、などと諸説言われている。また、大坂の役で得られた領地は豊臣家直轄の65万石余のみで、諸大名に対して恩賞を与えることは困難であり、家康や秀忠は身内に厳しく対処することで乗り切る狙いがあったとする説もある。大久保長安は生前より徐々に失脚し、慶長18年(1613年)4月の長安の死の直後から「大久保長安事件」と呼ばれる長安派の粛清が始まった。翌慶長19年(1614年)8月21日、忠輝の家老・花井吉成(花井の娘は長安六男の妻)が死去した。その後、大坂の陣を前後して忠輝の上述の動きがあり、元和2年(1616年)に改易という流れである。
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