松平忠輝統治時代とは? わかりやすく解説

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松平忠輝統治時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:44 UTC 版)

高田藩」の記事における「松平忠輝統治時代」の解説

堀氏改易後には、家康の六男・松平忠輝が従来川中島藩12万石加え越後の新領である63万石領する75万石太守として封じられた。松平忠輝慶長19年1614年)に高田城築城し、福嶋城を廃してこれに移った厳密な意味ではこれ以降高田藩である)。実際藩政慶長18年1613年)までは附家老大久保長安統括した。この長安武田信玄にその行政手腕見出され登用され家康の下では関東代官金山奉行として活躍した人物である。長安佐渡金山をも取り仕切っていた。しかし忠輝は慶長20年1615年)の大坂夏の陣遅参した上、忠輝軍が大坂向けて行軍中の近江守山徳川秀忠直属旗本2名を斬殺するという事件を起こした加えて大坂夏の陣後、朝廷戦勝奏上すべく家康と共に参内することになっていたにもかかわらず、忠輝は桂川舟遊びをしてこれに加わることができなかった。これらが原因と言われているが、家康死後の元和2年1616年7月6日将軍秀忠の命により忠輝は改易および伊勢朝熊配流となった。ここに至る混乱の原因について、忠輝は父・家康異母兄徳川秀忠疎まれたことがあったため反発していた、秀忠が忠輝の存在(忠輝の妻・五郎八姫伊達政宗の娘で、この縁組取り持ったのは大久保長安であり、彼らが結託すれば大勢力になる)を恐れたための処置だった、徳川忠長松平忠直同様に近しい親族幕藩体制確立障害となるため排除された、などと諸説言われている。また、大坂の役得られ領地豊臣家直轄65万石余のみで、諸大名に対して恩賞与えることは困難であり、家康秀忠身内厳しく対処することで乗り切る狙いがあったとする説もある。大久保長安生前より徐々に失脚し慶長18年1613年4月長安の死の直後から「大久保長安事件」と呼ばれる長安派の粛清始まった。翌慶長19年1614年8月21日、忠輝の家老花井吉成花井の娘は長安男の妻)が死去したその後大坂の陣前後して忠輝の上述の動きがあり、元和2年1616年)に改易という流れである。

※この「松平忠輝統治時代」の解説は、「高田藩」の解説の一部です。
「松平忠輝統治時代」を含む「高田藩」の記事については、「高田藩」の概要を参照ください。

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