松平忠礼・忠厚兄弟のアメリカ留学に随行の顛末とは? わかりやすく解説

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松平忠礼・忠厚兄弟のアメリカ留学に随行の顛末

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 01:08 UTC 版)

山口慎」の記事における「松平忠礼・忠厚兄弟のアメリカ留学に随行の顛末」の解説

6代上田藩主で幕末期老中務めた松平忠固(ただかた)亡き後息子・忠礼(ただなり 1850年嘉永3年〉-1895年明治28年〉)は第7代最後藩主となる。明治4年山口玄山は翌年留学控えた忠礼の御修行御供命じられたが、病気のため退職隠居し息子の慎に業務継がせる26才の慎は兄弟年齢近く文武両道であったので用心棒の意味合いもあったであろう洋行備え牛乳牛肉慣れ練習もして、1872年明治5年〉、慎は忠礼と弟の忠厚(ただあつ、1851年嘉永4年〉-1888年明治21年〉)のアメリカ留学随行し、ともにニュージャージー州ラトガース大学グラマースクールで学ぶ。 1875年、慎は父玄山の死去によって松平兄弟より早く帰国したラトガース大学進んだ忠礼は1879年全課程終えて帰国するが、忠厚はその直前に姿をくらまし交際中のカリー・サンプソンと結婚してしまう。忠厚は旗本塩崎松平家継いでおり、すでに妻がいた。松平家激怒し山口慎は間に入り忠厚と何度も書簡やり取りするが、養家からは離縁、忠礼は送金断ち決し復籍を許さなかった。その折書簡上田市立博物館残っている。 アメリカに留まった忠厚は土木技師として働きその後ニューヨークブルックリン橋建設工事ユニオンパシフィック鉄道主任技師として活躍測量機器発明もして各地新聞にたびたび取り上げられた。コロラド州デンバー肺結核のため36才で死去次男のキンジロウ(欽次郎)はメリーランド州エドモンストン初代市長

※この「松平忠礼・忠厚兄弟のアメリカ留学に随行の顛末」の解説は、「山口慎」の解説の一部です。
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