松川合戦の時期と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 22:55 UTC 版)
「改正三河後風土記」 政宗度々敗軍し無念に思い、早く軍を止むべきよし、しばしば台命を蒙りながら、福島・梁川両城を責めとらずしては置くべからずと、(慶長六年)四月十六日又白石を出勢す。此時伊達上野介成実斥候をよくす。廿一日政宗本陣を小山にうつす。…政宗兼て土民に金銀多くあたえ、上杉方の油断を聞出し、廿五日夜半に小山を内立瀬上をへて、廿六日暁松川に着。 「東国太平記」「会津陣物語」 政宗は度々の合戦に打負け、無念たぐひはなかりけり。去年七月江戸より中澤主税を御使にて、景勝と取合う事深く御制止ありけるに、其御意を用ひず、あまつさえ数度の後れを取りたるければ、何とぞして一戦に勝って御前の申し分仕りたしとぞ願はれける、是により慶長六年四月十七日、(中略)二萬五千を引率し、白石の城に着かれけり。(中略)政宗は廿一日に白石の城を立ち、松川に陣を取たりける、(中略)政宗二萬余にて、四月廿五日の夜半に小山を立ち、瀬の上を通り、廿六日の未明に松川さして押し寄す。 「武辺咄聞書」 世上にては関ケ原御陣の時分、景勝と伊達政宗と一戦して政宗を追崩し、伊達の幕を分捕せし故、上杉家にて竹に雀を用ると云。大成る誤也。但関ケ原御陣御勝にて天下悉く家康公に随といへとも、上杉景勝会津に被籠て不随。政宗とひたと取合、翌年迄の弓矢也。政宗幕を上杉家へ奪ひ取たるは、関ケ原御陣翌年慶長六年四月廿六日也。 「常山紀談」 慶長六年四月伊達政宗奥州景勝の地を斬取らんと百姓を間者にしておこたりを伺えり。(中略)政宗は国見峠を踰信夫郡より瀬の上の川を渉り。五千の兵にて梁川の城を押え松川をさして押寄せる。(中略)岡野(左内)猩々皮の羽織着て鹿毛なる馬に乗り。支え戦ひけるを政宗かけ寄せ。二刀切る岡野ふり顧て政宗の冑の真向より鞍の前輪をかけて切付。かえす太刀に冑のしころを半かけて斫はらふ。政宗刀を打折てければ岡野すかさず右の膝口に切付たり。政宗の馬飛退てければ岡野政宗の物具以の外見苦しかりし故。大将とは思ひもよらず。続いて追詰ざりしが後に政宗なりと聞きて。今一太刀にて討取るべきにと大に悔やみけるとなり。 松川での川中での岡左内と政宗の太刀打ちの逸話は、「改正後三河風土記」「東国太平記」「会津陣物語」(杉原彦左衛門、物語覚条々)の全てに記載され、いずれも慶長6年4月26日で一致している。
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