東西対抗と甲乙組制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 05:08 UTC 版)
1927年から朝日新聞が大手合のスポンサーとなって棋譜を新聞紙面に掲載するとともに、春秋二期制(前期・後期)とすること、五段以上と四段以下の成績優秀者による甲組と、四段以下の乙組に分けること、大相撲に倣った東西対抗形式として団体戦成績と個人成績による賞金を出す、という形となった。賞金金額は団体戦甲組優勝が500円、個人甲組1位が1000円で、東西の勝った方には優勝旗が渡され、個人優勝者は棋院内に優勝額が飾られた。この東西対抗戦は瀬越憲作、鈴木為次郎両七段を東西主将として、大いに人気を博し、「昭和の御城碁」とも称された。 ところが1928年秋の大手合の瀬越憲作・高橋重行戦で万年劫を巡る終局ルール問題が持ち上がり(万年劫事件)、東西対抗意識によって問題は拡大され、党派意識の弊害が指摘されて、1929年からは東西対抗制は廃止された。 また大手合の成績上位8名によるトーナメント、大手合優勝者決戦を開始。1939年秋期からは甲組・乙組を、五段以上と四段以下の手合も可能とした第一部・第二部とし、また五段以上の棋士は昇段に従来の70点でなく65点でよいという便法昇段制度を導入、これまで2週間で行っていたのを半年間とするなどの制度変更がなされた。 日本棋院関西支部(関西総本部の前身)や東海本部(中部総本部の前身)ではこれとは独立した大手合を行っていたが、主な棋士は東京の大手合にも上京して参加していた。また関西、東海においての昇段が東京本院では認められない場合があるなどでの不満が、後の関西棋院独立につながることになる。
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