東洋商会・天活・帝キネ・新興・大映
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 18:50 UTC 版)
「三友倶楽部」の記事における「東洋商会・天活・帝キネ・新興・大映」の解説
東洋商会 1913年、「福宝堂」時代に同社本社(東京)の営業部長だった小林喜三郎が日活を退社して「常盤商会」を設立、同時期に山川も日活を退社、「東洋商会」を設立した。山川の「東洋商会」は同年10月から翌1914年1月にかけて、月間6-7本ペースで映画を量産した。 天活 山川は、「楽天地」に先立つ1914年3月17日、東京の小林喜三郎の「常盤商会」と自らの経営する映画会社「東洋商会」との共同で「天然色活動写真」(天活)を設立、カラー映画の製作に乗り出した。同社社長は日活から引き抜いた金子圭介、山川は大阪支社長に就任した。東洋商会が旧福宝堂から引き継いだ「東洋商会東京日暮里撮影所」は「天然色活動写真日暮里撮影所」となり、福宝堂で監督だった吉野二郎を引き抜き所長に据え、東洋商会のカメラマン枝正義郎を技術部長とした。加えて、1916年、新たに「小阪撮影所」(東大阪市)を新設した。 帝キネ さらに1919年、「巣鴨撮影所」を新設したが、この「天活」は、同年、小林が設立した「国際活映」(国活)に吸収合併された。その際、山川は国活に参加せず、「大阪支社」と「小阪撮影所」を「帝国キネマ演芸」(通称「帝キネ」、1920年 - 1931年、大阪市南区日吉橋)に改組した。 「帝キネ」は、1923年、小阪に加えてさらに「芦屋撮影所」(兵庫・芦屋市)を新設した。1925年に「小阪撮影所」を閉鎖すると、同社から独立した立石駒吉が「東邦映画製作所」を設立、同撮影所を復活したが2か月で解散した。また同年、同社を退職した石井虎松が「芦屋撮影所」を独立させ「アシヤ映画製作所」を設立、新体制の「帝キネ」に作品を供給した。1928年には「東洋のハリウッド」とよばれた広大な「長瀬撮影所」(東大阪市)を新設したが、後者は1930年9月に焼失した。 新興 翌1931年、「帝キネ」は「新興キネマ」(1931年 - 1942年、東京)と改組し、山川は経営から離れた。山川は、1934年に死去した。58歳没。 大映 やがて「新興キネマ」は1942年、大都映画、日活製作部門と3社合併して「大映」となった。
※この「東洋商会・天活・帝キネ・新興・大映」の解説は、「三友倶楽部」の解説の一部です。
「東洋商会・天活・帝キネ・新興・大映」を含む「三友倶楽部」の記事については、「三友倶楽部」の概要を参照ください。
- 東洋商会・天活・帝キネ・新興・大映のページへのリンク