杉原紙の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 03:15 UTC 版)
古代には、公用紙を生産するために全国各地から紙の原料であるコウゾを納める制度があり、中央には紙屋院が設けられて朝廷で用いる記録用の高級紙(紙屋紙)を生産していた。中央集権化がすすんで各地の国・国府が整備されるようになると、地方でも公用紙の需要が起きたが、紙はそれぞれの地方で調達することとされ、各地の農産地でも紙漉きが行われるようになった。 平安時代には、貴族階級が地方に所有する荘園が発達し、それによって中央への貢納が衰えるようになった。紙も同様で、有力な貴族は地方の荘園で紙を独占してしまい、中央の紙屋院へ納められる原料は減っていった。一方、各地の紙産地では独自の製紙法がうまれ、産地固有の紙が登場するようになった。例えば越前国では奉書紙が、美濃国では美濃紙が、備中国では檀紙が、大和国では吉野紙・奈良紙が生み出されていった。 杉原紙が初めて記録に登場するのもこの時期である。平安後期に藤原氏の頂点にいた藤原忠実(1078年 - 1162年)の日記『殿暦』のなかで、1116年(永久4年)に忠実が子の藤原忠通、泰子に「椙原庄紙」を100帖贈ったという記述がある。椙原庄(杉原荘)というのは播磨国にあった藤原家の荘園で、現在の兵庫県多可町(以前の加美町にある杉原谷)に相当する地域である。 この「椙原庄紙」が具体的にどのような特徴を持っていた紙なのか、中世・近世の「杉原紙(杉原式の和紙)」と同質のものであったのかは不明である。椙原庄紙にかぎらず、古代の紙の実物が現存する例は少なく、当時の文献も紙質に関する言及は極めて乏しい。「厚い」「粗い」などの表現も稀にあるが、何と比較して厚い薄いと述べているのかは不明で、杉原紙をはじめ多くの紙が古代から中世・近世・近代と製法が変わってきているため、同じ名称でも古いものと新しいものが同じ特徴を持っているかもよくわかっていない。
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